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正座
先日、少年サッカー大会開会式の後に、叔父の49日があったものですから三重県まで行って来ました。和尚さんが、お経を唱えて下さる間、皆正座をします。しかし、段々時間が経って来ますと、一人また一人と足を崩し始めますが、私は最後まで我慢しました。叔父の為に*約1時間です。 足の神経が麻痺し、感覚が無くなって動かなくなります。どうでも良いことほど意地を通したくなるバカな性格ですから、良い修業をさせて頂けました。感謝致します。大袈裟ですが、正座は葛藤の繰り返しですね*弱い自分と、負けたくない自分との意地が、ぶつかり合う様でした。でも、ある一線を超えましたら、何処か、「無」に近い状態になれたのです。 私がない状態とでも申しましょうか?何て言うのでしょう?正座とは、ただ正座をすれば良いのではありません。微動だにしないことが寛容です。手の位置、頭の位置、体を揺らさないで行うことは難しいです。 ある和尚さんは、正座を最初からしない人や、足を崩す子供やその親に対して、「痺れるのは生きとると言う証拠やから、少しくらい我慢して正座しなさい!」と、一喝し教えたそうです。直言される人間が少なくなりましたから、貴重な存在です。和尚さんは!私は、「和尚さん」と言う呼び方が一番シックリします。
お坊さん
「お坊さん」と呼んではいけないとか?「お寺さん」と呼べとか?色々あるそうです。「ご父兄」さんと呼んではいけないとか、「保護者さん」と、呼べとかも一緒ですね!どちらでも良いことなのに変に拘りたがる?可笑しな日本*「お疲れさん」は良いけど、「御苦労さん」はダメ!目上とか、先輩、後輩、部下なんて関係ないでしょう* 問題は気持ちが本当にあるのか?ないかの問題です。どれだけの違いがあると言うのでしょうか?そんな細かいことに拘るから、人間が可笑しくなって行くのです。重箱の隅を突きクダラナイことを言って説得?納得!させようとする?外国では、きっとそんな生産性のない価値はバカらしくて気になさいません。アメリカくらいでしょうか?変な裁判が多いですから?よく「納得した?納得出来ない?」何て流行り言葉の様ですね!私の嫌いな言葉ベスト10に入っています。☠ 笑 自分に納得してますか?この境遇に納得していますか?恋愛でも全て納得してお付き合いしていますか?また納得して結婚をしましたか?納得とは、理解して承知し心から了解出来たこととあります。そんな事ばかりなら苦労はしません。更に苦労しないなら喜びや楽しみも無くなるでしょう*解らないからウキウキする!意味が解らないから神秘的に観える!理解できないから魅力も感じる!納得出来ないことって素晴らしいと思います。納得出来ないことを納得出来ないまま受け入れ、ならば次にどうしよう?と考えた方が前向きだと思われませんか?思いませんね*私だけですよ・・・★ 元気ですか?元気ですよ ☆
南無阿弥陀仏
家康さんが秀吉さんに、くれぐれも我が息子を頼むと言われていたにも拘わらず、秀頼を自刃に追い込んだ自責の念から、この南無阿弥陀仏と言う念仏を繰り返し書いて写経していたそうですが、どの様な意味があるのでしょうか?字には必ず意味があるとお聞きしていましたが、そうではないこともある陽です。例えばこの南無ですが、これは当て字だそうです。インドの、「ナマステ」の「ナマ」に一番近い発音の、「南」と「無」が使われました。それは、中国で一番発音が近かったからでした。意味は別にあり、「帰依」するとのことです。
袈裟の意味
大袈裟や袈裟斬り!坊主憎けりゃ袈裟まで憎い*などの言葉が沢山ありますね!和尚さんの袈裟は、布が継接ぎで作られ左肩から右腰に掛けています。やはりそれには意味があるそうで、昔インドでは、目上の人の前に出る時は、右肩の素肌を出して拝謁すると言う習慣だったそうです。その名残り*そう言えばクレオパトラや、ジーザーの時代も右肩を出していましたね!女性はとてもセクシーに見えます ♡ イカンイカン狼になってしました* ☠ 今でも袈裟はワザとパッチワークの様に継接ぎだらけに作ってありますが、その方が逆に今の時代は手間でお金が掛かるそうです。昔は、お金がなく経済的な理由からそうせざる得ないことだった*今もその精神を忘れてはいけないと言う意味から継承されていますが、少しズレしまっていると私は思います。本当にその教えを受け継ぐのであれば、高級車はそぐわないのではないでしょうか? これは袈裟だけの話ではない気が致します。侍の精神も、住職も、親も、子も、教師・コーチも、全てに於いて立派な言葉だけを都合の良い時にだけ使い、言い逃れや、自己主張に利用しているだけです。般若心経は、276の字を使って、人間の人生は全て、「空」であると教えています。でも、その空は、空っぽ?「虚」になってしまっている。教えとは一体何でしょうか?この教え?考えや物は人々に対して説得力があり、感心して貰えそう?だから見せ掛けだは受け継ぐのですか?疑わしい宗教は沢山あります。何が真実で何が虚なのかを見極める本物の目が欲しい*
輪廻転生
昔々、お釈迦さまに質問をしたお弟子さんがいました。「お釈迦様!人間は死んだらどうなるのでしょうか?」それに対して、お釈迦様は何も答えませんでした。察するに、「そんなことを心配するよりも、今やる?やれることが沢山あるでしょう*」と、弟子は解釈されたそうです。
流派はどうして?
宗教は、相談される方や、困っている方に対して、その人の心に伝わり易い、例えを用いて教えられます。例えば、商売人に対しては商売に関する例えで!平民には平民に解り易い様に!兵士には兵士に響く言葉で!その様なことから解釈が違って行き、流派が別れて行ったのです。元は同じですが、対立もしていますね*お釈迦さまも、苦笑いをしておられることでしょう?
死後の世界
死後の世界など知らない方が良いのです。知っていても、知ってるつもりなだけ?実際と聞いた話が違っていることは沢山ある!体験もしないで、本当に知っているなんてオコガマシイと思われませんか?