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武術

先日、武術を子供達に教えて来ました。指導させて頂いて一番感じましたことは、スポーツとはまた違う、無制限の身体エネルギーや感情の発散場所が必要なのだなあ!と実感致しました。自我の放出、怒り、自身を賭けた本当の意味の戦いや、生まれ持った闘争本能などなど、様々なことが浮き彫りになり、その子供達、本来の姿を垣間見ることが出来たのです。倒されまいとする意地や、倒された時の本当に悔しそうな顔、倒されても負けを取り戻そうと最後まで諦めないド根性!自分を倒した相手に本能剥き出しで向かって行く闘争心!どれも人間として、とても重要な部分です。成長過程に於いてこの様な経験をすることで、将来的に他人や、社会のせいにしない人格形成が出来ると信じます。

無制限

無制限のエネルギーとは、これをしてはいけないや、足だけを使えとか手だけを使ってという制限を設けるのではなく、身体全てを使って何でもして良いよ!という無制限の意味です。自分自身を解放するのです!このエネルギーは、子供が全身で自己表現しますし、希望と未来に向かった喜びも自然な形になって溢れ出て来るのです*制限を設ければ子供は成長を自ら止めてしまいます。しかし、私の個人的な意見ですが、制限のある中でも工夫出来たり、その制限をブチ破る様な選手が大好きです!私もその類なのです*矛盾していてすみません*でも、技とは矛盾しているからこそ利くのです!笑

スポーツ化された武道と武術の違い

スポーツ化された武道と言いますと、柔道とか剣道があります。あっ!空手も最近はスポーツ化されていますね!スポーツ化されますと制限が沢山出来てしまいます。例えば、打つ所は、面、小手、胴、喉になり、柔道で言えば、危険技の禁止、私の得意なカニバサミや袖の内側を持ったりすることも反則ですね!そして、空手や柔道もボクシングと同じで、体重別に階級を分ける様になってしまいました。更に最近の空手では、防具も多用されています。本来、武道や武術とは「本当の戦い」ですから、制限なんていうものは無いのです。それが競技化される過程で、様々な制限やルールを作り出してしまったのでしょう? しかし、その武道の中で唯一、昔の流れを頑なに守っているのが、合気道や柔術くらいなのでしょうか?その理由は簡単なことで、試合が無く競技化されなかったからです。合気道は特に試合をしないというのが基本的な考え方ですから、スポーツ化されませんでした。

スポーツと武術の動きの違い

スポーツの動きの中で俊敏に動く方法として、地面を強く蹴り体重移動することを教えますが、それは武術では絶対にしてはならないことになります!それをしてしまいますと、その場に居着いてしまうからです。真正面から相手が斬ってくる時に、地面を強く蹴って逃げていては、遅過ぎて足が残り、バッサリやられてしまいます。斬られない様にする為には、膝を抜きながら宙に浮き体を移動させるのです。これは、後付でも何でもありませんが、私は誰に教わったこともないのですが、その動きが自然と身についていました。誰よりも早く動きたいとか、誰よりも先に察知したいという子供だったからこそ出来ていたのかも知れません?しかし、それを説明しようとすると、どうしてもスポーツ指導的なことしか、教えられなかったのです。勉強して見て「あっ!そうなのか~」と論理的に理解出来ました。このキッカケは私にとって非常に大きなインパクトを与えてくれました!武器や物を持つスポーツや、武道に全く興味を持てなかった私にとっては、本当に目から鱗が落ちたのです。武術に興味が湧く瞬間でした。科学的なトレーニングよりも、武術の命懸けの技や術の方が優れているのは、当たり前と申しましょうか?当然ですよね!命が懸かっているのですから・・・もう一つ武術に興味を持ったキッカケがあったのでお伝えしますと、走ろうとする瞬間の身体の使い方と静止状態からの動き?反射神経とでも申し上げた方が良いかも知れません。数年前に、お名前は控えさせて頂きますが、個性を伸ばしながら優秀な選手を沢山育ててみえる、ある名テニスコーチの指導を受けたことがあります。生徒は総勢8名くらいでしたが、その練習の時にそのコーチから、「あなたは、人とは違う特別な何かを持っているなあ?もっと若い時に見て上げたら、花開いたのに」と、真剣な顔をしておっしゃって下さったことがありました。その訳を自分なりに考えて見ますと、一瞬で変わる身のこなしか?次の予測が早いことなのか?感が良いことなのか?と考えて見ても結局分かりませんでしたが、しかし、そのことを言って下さった時は、ボレーをしていたのですから、やはり動きの起こりが無く、瞬時に動けて反応が早いことだろう?と考えたのです。 体の遊びを取り、膝を抜いて動いていたからだと思います。そんな経験と武術の身体の使い方がマッチしたものですから、尚更興味を抱いたのでした。余談ですが、最近ビックリしたことがあります。それは、ニュース番組の中、アフリカの何処かで暴動があったらしく映像が流れていました。 そして、鎮圧に当たる軍人が、大勢の民衆に向け発砲したのです。その時でした!民衆が一斉に膝を抜き宙に浮いたのです!こんなことで感心していては罰が当たるのですが、私は思いました。人間の本能の中には民族関係なく、そういう動きは具わっていることを!命が掛かれば皆同じなんですね!本当に本当に良く分かりました。

クロスステップの疑問

私が、常々疑問に思っていたことに、サッカーの練習で行う「クロスステップ」があります。上半身を右に左に捻りながら、後ろ足を前に後ろにクロスさせるトレーニングです。このステップが本当に実戦で役に立つのだろうか?と・・・私がディフェンスで、この動きを使って試すとよく抜かれてしまいます。多分それは、相手が次々に方向を変えた時、自身は身体を捻っている為に、次の動きの立ち上がり時間が遅くなってしまい抜かれてしまうからです。

捻らない、うねらない、溜めない。

武術に於いてこの三つは、とても重要なことと教わりました。しかし、私は、やってはならない、この三つの全てを使ってスポーツをしていたのです。 捻るから=パワーが出る!うねるから=身体が流れる様にスムーズに動く!溜めるから=バランスを保ち効率良い力を発揮出来る!などなどです。その中で求められることは、プレーに掛かる時間の短縮です。私が空手を辞めボクシングを遣り始めたキッカケは、事の起こりに時間が掛からないスポーツに興味を持ったことと、顔に向かって来るパンチを避けられる様になりたいと考えたからでした。

三方斬り

三方斬りとは、読んで字の如くで、三つの方向から来る相手を斬ることです。先ず正面の相手を斬り、次に横の相手を斬る、そして、正面に戻り新たな相手を斬るという技です。これを1秒?あるいは、1秒切るぐらいで行うのです!私がこの練習を毎日稽古に取り入れ始めまして、4ヶ月目に入りましたが、まだまだ不十分です。そう簡単には行きません。何故この稽古を取り入れたかと申しますと、前述の「捻らない、うねらない、溜めない」ということが、どんなに大切なことか?ということを子供達に見せて納得させる良い方法だと思ったからです。捻ったり、うねったり、溜めれば、パワーは出ますが、技と技との間や身体の向きを瞬時に変化させるにあたって時間が物凄く掛かってしまうのです。本当の戦いの中では次々に相手が変化して行きます。その対応が遅れれば致命傷になったり、スポーツで言えば味方にピンチを招いてしまう結果になるのです。それを回避するためには、捻ってはいけません。小魚の群れの様に方向を変える?その為には身体を細かく割って動かし使う事なのです。非常に分かり難い説明で恐縮ですが、もう少し私なりに補足しますと、早く捻ねり、また戻そうとすると、蜘蛛の巣に引っ掛かった様になり、敏速に動けば動くほど絡みついてしまい自身の身体操作が出来なくなるです。 そこで、足は足とし、膝は膝、胴体は胴体、肩は肩、腕は腕、手の指は指、頭は頭として独立した形で動かすのです。こんなことをすれば、普通に考えますと身体がバラバラになりそうですが、稽古を積めば纏まって来るのです。何時かこの動きをHPでご紹介出来ればと思っています。ご覧にならないと、ヤスユキは考え過ぎて頭がオカシクなったと言われてもいけませんので・・・元々変ですが!笑

真剣

三方斬りの稽古を遣り始めて、一ヶ月くらいした頃でしょうか?手に肉刺が出来て何回も潰れ、手の皮が丈夫になりかけた頃、思い切り頭の耳の後ろを木刀で叩いてしまいました。何でも人間は慣れた頃が一番危ないのですよね!私は自分の不甲斐無さに怒りこう考えました。木刀だと安心してしまい真剣さに欠けてしまうのだな?本物の刀、真剣で練習しようと!命懸けで練習してこそ本物に近づけると思い立ち、今は真剣で真剣に練習し励んでいます。これが本当の真剣です!笑 ごめんなさい*防具や模造を使っていては、きっと気の緩みが生じるのでしょう?何でも興味が湧き出しますと、トコトン突き詰めたくなるB型の私です。友人である馬術の選手に、このことを話しますと「その気持ちは、よく分かる」と言っていました。朝早く、凍て付く寒さの中でも、馬に乗った途端に汗が噴出して来るのだそうです。それは、怪我をするかも知れないという恐怖心や緊張感から来るのでしょう?でも、それ位の危機感がなければ上達はしないと教えてくれました。本物には敵いませんね*

防具と言えば

私が高校生の時に、アルバイトで矢作ダムの土木工事をしていたことがあります。何時も仕事中は、つま先に鉄板の入った安全靴を履いて、仕事をするのですが、ある日の朝、安全靴を履こうとしても見当たりませんでした?そこで私は、安易に考えてしまい運動靴でも大丈夫だろう?と汗を流しながら働いていました。そして、昼食も近づいた頃、監督からお呼びが掛かりましたので、手を止め走って駈け寄ろうとしたその時、大きな石につま先をぶつけて爪を剥がした経験があります。もし、安全靴を履いていれば何でもなかったのでしょうが、その後は動きが遅くなり、皆さんに迷惑を掛けてしまいました*その時に強く感じたことは安全なモノに慣れてしまうと、人間はその意識から離れられなくなってしまうのだなあ?慣れとは恐ろしいものだ!これからオレは、そういう物に頼らずに生きて行こう~と胸に刻んだのです。ですから、武道に於いても、防具を着けた練習は好きではありません。人間を弱くしてしまいます!その考えがあるものですから、私は今でもサポーターや、テーピングその他諸々はしないのです。 戦う時にそんな物を見せたら、相手に弱点を教える事にもなりますし、負けた時の言い訳にも出来る上、対戦選手だって負傷した相手と戦うのは、きっと気持ちの良いものではない筈ですから?真の戦いとは、相手を尊重したり認め合うものだと思います。ただ勝てば良いとの今の風潮は本当の戦いではありません。

鍛えるという真実

私は、二十代の頃、強くなりたくてウエイトトレーニングを取り入れた練習を毎日していました。そのお蔭で、左右片手の懸垂が出来る様になったり、120キロのバーベルをベンチプレスで上げられる様にもなりましたが、鍛えたと言うよりも消耗したと申しましょうか?ある意味壊していたかも知しれないなあ?と今になって思います。当時、道具が高くて買えない為に、いらない鉄を貰って来てはコツコツと自分で作りました。そのバーベルやベンチも自宅に残っていますが、何時も見る度に考えさせられます。本来、鍛えるや鍛錬は、やればやる程、強く丈夫にならなければなりません。  しかし、見た目を強く見える様にしただけだと思うのです。スパーリングでの経験話ですが、ライトかジュニアライト級(終わって60キロ弱)の私がある時、日本で最も重いクラスのミドル級選手(72キロ)それも和製シルベスタ・スタローンの様な筋骨隆々のムキムキマンと戦うことになりました!しかし、戦って見ますと、最初こそパワーに押されてロープを背にさせられボコボコに打たれましたが、直ぐに疲れてしまいパワーがなくなり、動きも鈍くなりました。その後は、私の一方的な内容でトレーナーのストップが掛かり終了したのです。そこで私は考えました。外見でいくら強そうに見えても、ダメだなあ! 本当に必要なのは、心肺機能を高めてスタミナを養うことは勿論の事ですが、筋肉を大きくする様な負荷を掛けるよりも、負荷の少ないウエイトで早く動かし持続性を鍛錬する事の方が重要且つ必要だと感じました。 元々、プロテインなどを使うことが嫌いな私ですので、ただ筋肉を大きくするのには反対でしたが、この経験から持続的なスピードとパワーを生み出す為には、トレーニング方法を変えなければならないと気付かせて頂いたのです。肉付けをして行く彫塑ではなく、彫刻の様に無駄な所を削って行く鍛え方です。

清原選手と朝青龍関

良い例があります。清原選手には、申し訳ない話なのですが、お許しください。清原選手は逞しい身体をしていらっしゃいますが、何時も怪我や故障に悩まされています。何故でしょう?私が思いますのは、鍛え方が間違っているのではないか?と思うのです。何年も前にテレビで観た事がありますが、あるトレーニングジムで名トレーナー指導の下、物凄いウエイトを掛けたバーベルを科学的に研究されたという方法で、トレーニングされていました。 確かに筋肉は大きくなり、パワーアップされたのでしょうが、それによりバランスが崩れている様な気がします。最近は加圧式トレーニングとか、色々な方法が考えられていますが、私は何時も疑いの目を向けてしまいます。何故、効果が早く表れて効率の良い物や楽をしてより成果の上がることに関心が集まるのかを?ある武術の先生は、科学的、科学的と言いながら、とても幼稚なモノや考え方に引き戻してしまっていると言っておられました。私も全く同感です。直ぐ効果の表れることは、直ぐに消滅し減退するのは当たり前のことです。当然と申しましょうか、自然の節理ですよね*そこで、清原選手と対極になると考えている方が朝青龍関です。朝青龍関の筋肉は、ナチュラルだと思います。筋肉の付き方のバランスが非常に良く変な言い方ですが、無駄な筋肉もありません。聞く所によりますと、子供時代から親の手伝いを沢山して、重い石運びを毎日していたそうです*ある一部分だけを鍛えるのではなく、全身に負荷を散らして鍛えたのでしょう?往々にして、人間は目に映り易いことに囚われてしまいます。今は休場してしまっていますが、その前などは怪我知らず故障知らずで活躍されていました。正しい鍛錬を積んで来たことが窺われます。鍛錬とは、千日の稽古を以って鍛とし、万日の稽古を以って錬とする。

武蔵の教えと真逆の剣道

剣道の話題に移ります。 今の剣道では、後ろの足の踵を浮かせていますが、武蔵先生の教えでは絶対にしてはならないと教えています。最近の私の独り言を紹介します?「足の踏みようは、つま先を少し浮かせ、きびすを強く踏むべし」というモノがあります。瞬時に動き、相手を斬る為にはこのこと肝心と記述しているのです。では何故、近代の剣道は、教えに背くことをしてしまっているのでしょうか?私なりに考えますとスポーツ化された為ではないのか?と思います。本来、本当の戦いであれば、何処を斬っても良い筈なのです。相手の攻撃が制限されていれば、自ずと形式化されてしまいます。昨年、剣道の日本一を決める戦いをNHKで観ましたが、面の同士討ちで勝敗が決してしまいました。その差はナント0、何秒でした。これが真剣なら二人とも即死ですね!剣道の批判を申し上げるつもりは毛頭御座いません。今一番好きな武道です。何故なら、礼節を重んじ、またとても自制的だと感じるからです。勝っても相手に必ず、畏敬の念を残します。本当に素晴らしい*

術の不思議?

色々な武術の勉強をしていますと、奥の深さに感服致します。極限まで試された先人の技にロマンを感じずにはいられません。もっともっと勉強して、少しでも子供達に伝えられたら良いと思います。忍者の本当の姿や侍の凄さを知り、その技をスポーツに活かし、世界中の人々がビックリする様な選手を輩出する為に!

戦いの中で

武道や武術を鍛錬し、戦いの中で何を学ぶのでしょうか?スポーツと同じ様に人生を学ぶのだ!と私は思います。道場の中だけ強くても仕方ありません。肉体も精神もです。今は、ストレスの発散場所が少なく、蓄積されるだけの世の中なのでしょう?そういったことが、クレーマーを生み出してしまい、善い人でも変節してしまうのかも知れません? 悲しい限りです。 NTTやホテル関係者に伺いますと、毎日クレーマー処理に追われて、ご病気になられたり、最悪のケースは自ら命を絶つこともあるとお聞きしました*何をどうすればよいのでしょうか?日本の未来は、子供達にとって住み易くなれるのでしょうか?本当に心配です。どんな事にも打ち勝つ心を養わなければと想う今日この頃です。武道では、自分の意見を言った時点で、道が別れてしまいます。素直な心こそ必要な資質なのです。今は、人の意見や考え方を否定し、それをぶっ壊してでも自分の意見を押し通すことが、善しとされているのかも知れませんが、それは多分歪んだ行いだと思うのです。もし、妥協出来なくどうしても我慢出来ないことであれば、参加するのを止めたり、袂を別け合えばよいだけのことです。全て自分の思い通りに行くとの驕った考えや、狭い範囲に固着する思想が自らを苦しめることに繋がると、スポーツの中や武道、武術を学べば、よく理解させて頂けます。武術の先生曰く、矛盾を矛盾無く受け入れ、矛盾無く取り扱うことが肝心!また、こうもおっしゃっていました。考えた時点で否定してしまうのだ・・・武道、武術の世界では、自分の意見は言わずに、自分を通す術を学ぶのだと私は思います。

最近の無差別殺人事件

社会やスポーツの中には、ルールというモノがありますが、ルールの枠組みには、曖昧なモノや法律で定められているモノもあれば、ローカルルールみたいなモノもあります。更に、社会常識的なこともありますね!ルールの捉え方として最近は、必ずしも守らなければならないモノに罰則があり、守らなくて済むものには罰則がない様な考え方になっているのでしょうか?個人主義の世の中は、自分達自身でルールを作り、そのルールに縛られ、住み難い社会を自ら構築していると感じます。また、その反動で悲しい事件を引き起こします。例えば公共性の高い皆に迷惑を及ぼす場所で寝ている若者!コンビニの前で弁当を食べ、ゴミを撒き散らす人達!それらを注意したご老人が殴られたり、刺殺されています。 親や周りの大人に、叱られたり、痛い思いを知らずに育った結果なのでしょうか? 私の経験を含めた上で様々に考えを巡らして見ますと、こんな風に至ります。それは、表面的なことばかりの知識を詰め込まれた若者達が、実社会に出て行きますと、バカにされることが間々ある様です?その一例を挙げますと、何でも知っている顔をするし、また立派なことを言うにも拘らず、実社会で当たり前の事や、常識的なことが出来なかったりすれば、何だこいつは?となることは、想像に難くありません。当クラブでも、ノコギリを使えなかったり、コピーが取れない!また、灯油を入れるチュウチュウポンプの使い方が分からず大量に溢してしまい、どうして自動で止まらないのですか?ということもありました!笑 それに対して羞恥心が全くありません?「普通に解らないです?」とか「普通に出来ないです?」と言う始末です。そういう方は、指導者には向いていませんのでご遠慮頂くのですが、でも、そういう経験を何度もしていますと、その人だけを責めて何か問題が解決するのか?という素朴な疑問が湧いてきます。叱られたことがない!教えられたことがない!理不尽な思いをしたことがない! そして、自由という権利だけは主張する為に社会に順応出来ない!書いてないから分からないと言い?教えて貰ってないから分からないと怒って言う!何でも人のせいにする考え方は、社会から排斥された後に、孤独と疎外感を生み出し、何時か社会全体を敵視して、破壊的行動を引き起こしてしまうのではないのでしょうか?悲観的な終わり方ですが、ここまでとさせて下さい。

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