×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
天の恵み
人間誰しも天の恵みを受けています。当たり前過ぎて有難味は、厳しい環境の中に身を投じなければ中々感じられないと思います。助けられるのと、恵みを受けるのとでは随分違いますよね! どちらも有難いことですが、恵みの方は放射線の様に一方的に放出するだけで見返りは求めて来ません。 だからこそ有難い* これだけしてやったから、これだけ返せとは決して言いません。 例えば、一生懸命誰かに尽くしても見返りを求めずに生きて行ければ綺麗ですが、一言「これだけしてやったのに」「あの時はこれをしてあげた」と、言ってしまった瞬間に有難味が無くなります。人間は面白い動物ですね? 口に出して醜くなってしまう時もあれば、口に出さなく、そっとお返しをして助け合いながら信頼を深めたりするのですから*
お百姓さんと動物
昔のお百姓さんの家には、牛や馬がいました。畑を耕したり、重い野菜を運んで貰ったりしていました。私の新潟にいる遠い親戚の家にも牛がいましたが、今はいません。小学生の頃、その牛から搾った濃い牛乳を飲んだ記憶があります。動物達と暮らしを共に出来るなんて、これ以上の贅沢はないと私は思います。泥と汗に塗れることを忘れた人間は、複雑怪奇な世の中を創り出し、雁字搦めに絡みつき自ら悪い方向に向かってはいないのでしょうか*
高校選手権の涙
試合後のロッカールームにテレビカメラが入り、その模様を撮った番組を観て私は本当に情けなく思いました。嗚咽し膝を叩きながら泣く姿は、こんなに僕は悲しいんだ~見て下さい*と言いたげな涙に映ってしまったのです。残念*スポーツで鍛えられた精神力は何処に行ったのでしょう?または鍛えられなかったのでしょうか?それとも悔しがる自身の姿を見せて共感を呼び同情して欲しいのかも知れません?泣くのは自由ですが、とてもカッコ悪く観えました。更に、監督が如何にも感動的な言葉を投げ掛けて、余計に泣かせる場面はこちらが恥ずかしくなります。私の心が汚れているから、きっとそんな風に見えるのでしょう?私は、言葉よりも人様の善い行いを見て感動したいと存じます* 言うが易し、行うが難しです。人間やるか、やらないか!だと思います。泣いている暇があれば、次のことをやる方が前向きです。私も、人のことは言えないのかも知れません?子供やご老人のことになると涙脆くなるからです*自分のことで泣くことはないですね!ましてスポーツや武道の勝負に負けて泣いたことは一度もありません。
オシムさんが帰国する
オシムさんが志半ばで自国に帰られる時に、何千人も見送りに来ていて別れを惜しむ・み?ダジャレです!泣いていたそうです。それを見ていたオシムさんは、こうおっしゃいました。「泣くことよりも、人生に於いて困難なことはもっと沢山ある筈なのに?」よく泣く人達が沢山いる日本に対し、最後の戒めを伝えているのだと私は受け取りました。オシムさんは、戦争という最も悲惨で悲しいモノを乗り越えられて来た方ですから、涙とはどういうものなのかは、嫌という程知っておられることでしょう!一言一言に哲学的なモノを感じます。 指導者は答えを教えることではない!その一言から思考を刺激し考えさせながら自身と向き合わせ、自立心や良心に訴えて選手、人間としての成長を促しておられることが、未熟な私でも解る気がします。
矢沢永吉
昔、ロックグループのキャロルが人気絶頂期に解散してしまいました。打ち上げの時、シンミリ過去の栄光に浸っていたメンバーの中で、一人だけそうではない人がいました。それは矢沢永吉さんです。何故なら、もうソロデビューに向けて準備をしていて、数日後にはアメリカでレコーディングをする予定になっていたからでした。もう次のページを開いていたのです! 永吉さんと二人暮らしのお婆ちゃんが、一生懸命に市役所から請け負った草刈りの仕事をし、自分を育ててくれた背中を見ていたからでしょうか?きっと貧乏で虐められた経験や恵まれない環境で育ったことによって、強く前向きに生きる力を神様は授けたのだと想います*
泣いて同情を得る
テレビでもよく泣く場面を観ますが、同じ気持には殆どなれません。何に悲しんでいるのかさえ見得てこない時もあります。悪い事をして追及を逃れる為の涙ほど情けないものは無い気がします。泣けば本当に心を改め反省していると思うのは、安易ではないのでしょうか?本当の涙は、自然に溢れ出て来てしまうものです。ちゃんと見れば嘘の涙か、本当の涙か分かります。昔は「涙は女性の武器」と言われていましたが、最近は、男がよく遣います。恵まれ過ぎていますと、少しのことでも涙が出て来てしまうのでしょうか?パレスチナの人達が見たらどう思うのでしょう*
本当の涙とは何?
よく泣く人は、優しい人間なのでしょうか?ショックを受けたとか、悲しかった、精神的に立ち直れない!などの言葉を遣い泣きながら責任追及する場面をテレビでもよく観ます。また、芸能人全てではないのでしょうが、表面的に同情した振りをして流す涙は、意図的なモノを感じてしまい、益々芸能人に対して不信感と嫌悪感を持ってしまう私です。余り芸能人の方々は存じ上げませんが?笑 実は、ゴリさんも存じ上げませんでした!ゴリさんすみません* 少し前にテレビの「やらせ」が問題になりました!私からすれば「何を今頃おっしゃっているのですか?面白くさせたり、感動させ視聴率を上げる為に編集されているモノだということを忘れていたのですか?と問いたい気持ちになります。テレビは殆どやらせです。ドキュメンタリーだって人の手が加えられていて、客観的ではないモノも沢山あります。しかし、それを差し引き自分の価値観や物差しで真実を見極め観なければいけません! 騙すつもりではなくても、受け取り方によって異なるのは致し方ないことだと思います。自分の我儘が通らなかったとか、思い通りにならなくて泣くのは、本当に幼稚です。子供が大人になった様なモノですよね!豊かになって、色々な施しをしてあげることは、必ずしも良いことには繋がりませんし成りません。学校などで何か事件がありますと「心のケア」が必要とされますが、私は、例え酷いことがあったとしても、自身で乗り越えていくことが大切だと考えます。 誤解を恐れずに申し上げれば、死ぬことや涙することは全て悪い訳ではありません。起こった事に対して、どの様に捉え、どの様に考えるのかは、貴重な瞬間だと思います。情けを知り、置き換えた悲しみに触れ、感謝の気持ちから流れる自然な涙は本当に美しい*
希薄な社会だから涙が必要?
テレビでの涙の訴えや、辛辣な言葉での誇張したコメント、評論家の下品な論評などなど、ある時は情に訴えて、それが通らなければ罵詈雑言を浴びせ掛ける社会は、温かいのか冷たい社会なのかよく分かりません。表面的で幅の狭い偏った社会を創り上げてしまいました。 泣いて社会が良くなるのなら、もう既に良くなっている筈です!笑 沢山テレビで泣く場面を見て来ましたから* 新聞や雑誌、コメンテーターなども「切り捨て」と言う言葉がお好きな様ですが、本当に切り捨てたと思っているのなら、誠実で冷静な判断が出来ない人間だと思います。大衆迎合で支持されたい方々なのでしょう?大勢が後ろについた意見なら誰でも言えます。支持されなくても本質に目を向け、批判を覚悟で進言してこそ評論家だと思うのですが?何でも言えばいいと思うのは、現代病ですね!私と同年代の評論家が品のない言葉や、感情を剥き出しにして女性を攻撃していたり、一貫性のないことを知ったかぶりをして偉そうに言っている場面を観ていますと、世も末だなあ*と何時も感じます。そんな評論家が売れっ子で、コマーシャルにも出演する様になりました。なんで人気があるのか?本当に理解出来ません。綾瀬はるかちゃんが人気が出るのは分かるのですが!笑 可愛いですもんね*昨年、筑紫哲也さんの原爆ドキュタリー番組に出演していた、はるかちゃんの叔母様を見てファンになりました。すみません。真面目に戻ります!「切り捨て」と言う言葉は本当に酷い言葉ですね*その言葉を遣う人間の人格を疑いたくなります。大企業のことは余り存じ上げませんが、中小企業では、涙を飲んで仕方なく解雇しているのです。仕事がなければ致し方ないことです。誰のせいでもありません。もしあるとすれば、大量消費社会を創っている人間一人ひとりや、物の使い捨て社会を受け入れている私達にあります。資本主義社会は、成長をし続けなければならないのでしょうか?足るを知って自制的に成れないのかも知れませんね*様々な場所で言われる「修理するより、買った方が安いですよ」は私の嫌いな言葉です。それが故に時代遅れなのでしょうね私は!
スポーツに泣くはない!
アメリカの実話映画で「プリティーリーグ」というモノがあります。戦争の為に大リーグの選手が徴兵されゲームが出来ないので、球団オーナー達は、女性大リーグを考案して立ち上げました。 「女なんかに野球が出来るか!」と考える粗暴な監督役のトム・ハンクスに、女の意地を見せ立ち向かい素晴らしい試合をする映画です。その中で、ある大人しい選手がプレー中、セカンドに投げなければいけないのにホームに投げ判断ミスをしてしまったのです。そのプレーに対して監督は怒り注意し泣かせてしまいました。トム・ハンクス監督は泣いた選手を見てビックリし呆れてこう言ったのです。「泣いているのか?泣いているのか?オレは監督から「ブタのクソ」と言われた!それも両親が観に来ている時にだ!それでオレが泣いたと思うか?NO!NO!何故だ?野球に泣くはないからだ!」と・・・注意されて泣く様な奴にスポーツをやる資格がない!それが嫌ならスポーツはやるな!と言いたかったのでしょう?トム・ハンクスは、私が一番好きな俳優です。あのコミカルな演技で何時も笑わせてくれます。以前、私の母が「あんたに似た映画がやっとった!」と言うので、何かと尋ねたら「ターナー&フーチー」という犬と人間が助け合う内容の映画でした。私は、ブルドックに似たボクサーという短毛の犬が大好きで、今までに3匹と暮らして来ましたが、そのボクサーによく似た大きな犬とトム・ハンクスがコメディータッチで事件を背景に親友になって行く物語です。この話をしますと長くなりますので、またの機会にしますが、前述のトム・ハンクス演じる監督像は、私の理想でもあります。それは、飾らず実直で喜怒哀楽がハッキリ伝わり、ユーモアのセンスと厳しさが同居する人間味溢れる監督だからです。周りに左右されることなく、信念がしっかりとあり自信に満ちています。最後の試合で負けた時も「良く戦った!ナイスゲーム」と言葉少なく労わる姿がカッコ良かったです。
言葉を欲しがる風潮
最近のテレビでもそうですが、やたらと言葉を相手から求めて引き出そうとする傾向があります。感動的な言葉や、深い意味があると捉えられそうな言葉などを世間が期待していると感じています。如何にも値打ちを付けて言われたり、持ち上げ様としているのでしょう? 私はそれが、ムズ痒くて堪りません。言葉に踊らされている気がします。背中を押す言葉だったとか、この一言が私を変えたとか、そんな簡単に意識や意志を変えられるものでしょうか?また、変えても良いのでしょうか?簡単に信じてしまい、その結果次第ではその言葉を掛けてくれた人を恨むことにも繋がると思います。誰かが自分に何かしてくれる!誰かが言葉を掛けてくれる!などの受身では何も上手く行かない様に思います。少なくともスポーツに於いては、絶対海外では活躍出来ません。そんな甘い世界は、日本しかないのですから~人間は、飽くまでも自分の判断で生きるものだと思います。そうでなければ人生とは何の意味があり、何の価値を見出すのでしょう?ある人の言葉が人生を左右することは多少あっても、それが良く出る時もあれば、悪く出る時も半分はあるでしょう!その一言で共感したり、信じて崇拝する人は、逆から見させて頂きますと、ある一言で批判したり、一つの考え方で全てを否定する人間なのだと私は思います。他力本願な生き方です。人様の御蔭という考え方と、人のせいにする考え方とでは大違いですね!私が二十代の頃、そんな方々を沢山見て来ました。 さっきまで「あの人は素晴らしい」と褒め称えていたのに、自分の都合次第で「あんな酷い人とは思わなかった!」などと変節する人間に対して、不信感を持ったことを強く記憶しています。そう成りたくはないと思いました。手の平を直ぐ返す人間には成りたくはないですし、またそういう人は信じない様にしています。 本当の友人とは、例え大勢が批判していても、味方で在り続けるのが真の友人です。状況によって好き嫌いや善し悪しを変える人間を私は好みません。
朝青龍の行き付けの料理屋さん
私は、悪者にされている朝青龍さんが勝ち続けていて、嬉しく思っています。先日、横綱がよく行くお店にある番組が取材をしていました。その女将さんに愚問を繰り返すレポーターの方が最後にこう言ったのです。「朝青龍関に何か言葉を掛けてあげて下さい?」 その質問に対して女将さんは「何もありません。言わなくても横綱には分かりますから*」と、おっしゃっていました。立派な女将さんです。私の実家に帰りますと、私以外は全員朝青龍さんのことが嫌いの様です。その理由は、あのダメ押しをすることに対し嫌悪感を持っているのでした。その気持ちは解らなくもないのですが、私はこう擁護するのです。外国から一人で来て、日本人には解らないモノも沢山背負って必死で生きておられると思う!異国の地で言葉も解らなく、文化の違いから誤解を招くことも当然あったでしょう*目に見えない差別もきっと経験されたのではと想像出来ます。横綱という立場に、品格を求めるのは当然ですが、負けたら終わりという気持ちが強い為に、ダメ押しをしてしまうモノではないのでしょうか? それは、ちゃんと止めを刺しておかないと、勝負は分からないのもだし、自身に油断が生じ弱くなってしまうのが分かっているのでしょう?豊かな日本では理解されないのかも知れません* 品格がないと思われようが、命懸けで勝負していれば仕方がないことです。人生を懸けた真剣な戦いは我々だって観たいと思いますし、また面白いと感じる筈です。 命懸けの戦いをする朝青龍は、今の甘い日本の体質や忘れ去られたスピリットを教えてくれているのだ!と私は想うのです。頑張れ!朝青龍関*誰が何と言おうと私は貴方の味方です。同じ様なクダラナイ質問や、皮肉った意地悪と思える質問にも耐え忍んで下さい。男は我慢が大切ですね*辛いけど・・・以前の相撲を観ていた人達は、勝負に対する拘りが伝わらなかったからこそ、人気が低迷したのだと思います。その根本は、八百長があったのか無かったのかは知りませんが、真剣勝負や命懸けの戦いが観られなくなったから、気持ちが離れたのだと思います。しかし、今はどうでしょう?朝青龍のお陰で大変面白いですよね!涙の話ではありませんが、本物か?偽物か?必死なのか?惰性か?は瞬時に伝わってしまうものです。
山下泰裕選手の涙
柔道の山下選手が、初めてモスクワオリンピックに出場する機会が訪れた時に、政治的な問題から日本が不参加になってしまいました。とても落ち込んでいたところ、それに追い討ちを掛ける様に日本選手権の決勝で骨折をしてしまいました。新聞や世間は「山下、二重の苦しみ」と言われていましたが、本人は全く違う受け止め方をしていたそうです。山下選手曰く「これは休んで癒せということなのだ。だから苦しみでも何でもない」と・・・世間何て勝手な解釈をして満足するものだなあ?と改めて感じます。また、過去を振り返り質問をするインタビュアーに対し、こう述べられたのです。「過去の詳細を事細かに覚えているのは、気味悪い!沢山いますよ、過去の栄光にしがみ付いている人達は*私は、クソ食らえ!と思います。人生はチャレンジの連続で前向きに生きて行かなければなりません。」次のオリンピックの時、ケガをして足を引きずりながら金メダルを取った時の涙の訳が今やっと分かりました。今まで私は、誤解をしていたのです。あの試合の時、相手の選手が怪我した足を攻撃しなかったとか、攻撃したとかの議論が日本でされていた為に、私はウンザリして不快な思いを山下さんに持っていたのです。本人には関係ない所で?私は、戦いなのだから弱い所を攻めるのは当り前ではないのか?それが嫌なら戦わない方が良い!相手に対して失礼極まりないと考えていたのです。しかし、お話を聞いてあの足をケガした直後は、相手に知られてはいけないと必死だったそうです。悲劇的なことを演出して感動を見せたのではないことが、恥ずかしながら本当によく理解出来ました*本当に申し訳ないことです。ごめんなさい山下さん。
泣かない野茂選手はやっぱり素晴らしい
野茂選手は、引退の華々しいセレモニーをしないで引退しました。多分そういうことが、お嫌いなのでしょう?引退会見さえしませんでした。ボロボロになるまで戦い信念に基づき選手生活を終えました。ある番組で、そんな野茂選手に「成功の秘訣は何ですか?」とまた、クダラナイ質問をすると「秘訣はないですね、ただ行動するだけです。」と答えておられたのです。御尤もなことです!笑 どうして、成功者に対して直ぐ秘訣などを聞きたがるのでしょうか?お聞きして、真似をすれば成功する?と考えているのであれば、余りにも安易で愚かなことです。この前のオリンピックでも、100メートルのゴールドメダリストは、何を食べてあんなに早く走れるようになったのか?と真剣に取材する姿を拝見して、思わずため息が出てしまいました。綺麗な肌の人に化粧品は何を使っているのですか?何てお聞きしても、どんな生活習慣をされているのかや、食生活などは聞きません。「ローマは一日にして成らず」で、何かマネをしても劇的に変化することは難しいことです。良い習慣を身に付けてこそではないでしょうか?楽をして何事も叶う訳はないと思います。スポーツでも一流と呼ばれている人達は、必ず自分独自の練習を見えない所で行っていると思います。それが地味なモノもあれば、何の為の練習なの?と不思議に思う様なこともあるでしょう!スキー選手が日本舞踊で集中力を養ったり、サッカー選手がテニスをしてバランス感覚を磨いたり様々です。要するに、一つの事に邁進していても、一つのことに囚われていてはいけない!と言うことではないのでしょうか?あらゆるものに興味を持ち、その探究心が人とは違う考え方や発想を生み出して能力を伸ばすのでしょう?クラウドの子供達に口を酸っぱくして伝えています。「コーチの言うことだけをしていてはツマラナイでしょ?言われてないことに気付いたり、思い付いたりしたら、どんどんやっていいんだよ!また、そう出来ないと良い選手、良い大人には成れません」と・・・恵まれている環境と申しますのは、本人には余り自覚が芽生え難いものです。当たり前になってしまいます。従って良い環境ではないのかも知れません。ある動物学者曰く、「野生動物と人間動物の違いというのは、自覚があるか、ないか?の違いである!」とおっしゃっていましたが、私は疑問に感じています。自覚が本当にあるのだろうか?私自身も含めてそう思うのです。乞う人間を作ってしまうのが、恵まれた環境だと思います。
心で泣く時
私が心で泣く時、それは嬉しいことと悲しく切ない気持が混在してしまう時です。この仕事をさせて頂いていて、二度ほど経験があるのですが、元生徒が訪ねて来てくれ、親にも先生にも相談出来ない思春期の悩みを打ち明けてくれた時です* プライバシーと言うよりも、信義の意味から詳細を話すことは出来ませんが、本当に嬉しいと思う反面、苦しみを分かち合ってあげられない自分を憎むのです。何故なら、同情することをせず、解決方法を毅然と伝えなければその子の為にならないとの考えがあるからです。以前、ある有名クラブの方のお話を聞いたことがありますが、何故私のクラブには、卒業生が来ないのだろう?ダダの一回もない!と不思議がっていたそうです。それを聞いていた方が、私にこう教えてくれました。「あのクラブは、厳しいのと愛情を掛けて育てないからだ*」と・・・。それからすればクラウドは幸せなのかも知れませんね*卒業生達が、会場に遊びに来てくれたり、キャンプ合宿にまた行きたいから手紙を送って下さい!などと言ってくれますから* 昨日も、ある卒業生が私を訪ねて来てくれました。その子には、また違う意味に於いて特別嬉しく感じたのです。何故なら、6年生がもう直ぐ終わって卒業があと数か月という時に、その子の将来を私が心配する余り、自虐的な振る舞いや発言をキツク叱ったのが原因で辞めてしまったからでした。 しかし、その子は一人で会いに来てくれたのです。特別何かあった訳ではないらしいのですが、ただ先生いるかな~と顔を見に来ただけと申しておりました。ちょっと低くなった声で!笑 黒の学生服が眩しかったです*こんな時、私は恵まれているのだ*と感じます。
人間誰しも天の恵みを受けています。当たり前過ぎて有難味は、厳しい環境の中に身を投じなければ中々感じられないと思います。助けられるのと、恵みを受けるのとでは随分違いますよね! どちらも有難いことですが、恵みの方は放射線の様に一方的に放出するだけで見返りは求めて来ません。 だからこそ有難い* これだけしてやったから、これだけ返せとは決して言いません。 例えば、一生懸命誰かに尽くしても見返りを求めずに生きて行ければ綺麗ですが、一言「これだけしてやったのに」「あの時はこれをしてあげた」と、言ってしまった瞬間に有難味が無くなります。人間は面白い動物ですね? 口に出して醜くなってしまう時もあれば、口に出さなく、そっとお返しをして助け合いながら信頼を深めたりするのですから*
お百姓さんと動物
昔のお百姓さんの家には、牛や馬がいました。畑を耕したり、重い野菜を運んで貰ったりしていました。私の新潟にいる遠い親戚の家にも牛がいましたが、今はいません。小学生の頃、その牛から搾った濃い牛乳を飲んだ記憶があります。動物達と暮らしを共に出来るなんて、これ以上の贅沢はないと私は思います。泥と汗に塗れることを忘れた人間は、複雑怪奇な世の中を創り出し、雁字搦めに絡みつき自ら悪い方向に向かってはいないのでしょうか*
高校選手権の涙
試合後のロッカールームにテレビカメラが入り、その模様を撮った番組を観て私は本当に情けなく思いました。嗚咽し膝を叩きながら泣く姿は、こんなに僕は悲しいんだ~見て下さい*と言いたげな涙に映ってしまったのです。残念*スポーツで鍛えられた精神力は何処に行ったのでしょう?または鍛えられなかったのでしょうか?それとも悔しがる自身の姿を見せて共感を呼び同情して欲しいのかも知れません?泣くのは自由ですが、とてもカッコ悪く観えました。更に、監督が如何にも感動的な言葉を投げ掛けて、余計に泣かせる場面はこちらが恥ずかしくなります。私の心が汚れているから、きっとそんな風に見えるのでしょう?私は、言葉よりも人様の善い行いを見て感動したいと存じます* 言うが易し、行うが難しです。人間やるか、やらないか!だと思います。泣いている暇があれば、次のことをやる方が前向きです。私も、人のことは言えないのかも知れません?子供やご老人のことになると涙脆くなるからです*自分のことで泣くことはないですね!ましてスポーツや武道の勝負に負けて泣いたことは一度もありません。
オシムさんが帰国する
オシムさんが志半ばで自国に帰られる時に、何千人も見送りに来ていて別れを惜しむ・み?ダジャレです!泣いていたそうです。それを見ていたオシムさんは、こうおっしゃいました。「泣くことよりも、人生に於いて困難なことはもっと沢山ある筈なのに?」よく泣く人達が沢山いる日本に対し、最後の戒めを伝えているのだと私は受け取りました。オシムさんは、戦争という最も悲惨で悲しいモノを乗り越えられて来た方ですから、涙とはどういうものなのかは、嫌という程知っておられることでしょう!一言一言に哲学的なモノを感じます。 指導者は答えを教えることではない!その一言から思考を刺激し考えさせながら自身と向き合わせ、自立心や良心に訴えて選手、人間としての成長を促しておられることが、未熟な私でも解る気がします。
矢沢永吉
昔、ロックグループのキャロルが人気絶頂期に解散してしまいました。打ち上げの時、シンミリ過去の栄光に浸っていたメンバーの中で、一人だけそうではない人がいました。それは矢沢永吉さんです。何故なら、もうソロデビューに向けて準備をしていて、数日後にはアメリカでレコーディングをする予定になっていたからでした。もう次のページを開いていたのです! 永吉さんと二人暮らしのお婆ちゃんが、一生懸命に市役所から請け負った草刈りの仕事をし、自分を育ててくれた背中を見ていたからでしょうか?きっと貧乏で虐められた経験や恵まれない環境で育ったことによって、強く前向きに生きる力を神様は授けたのだと想います*
泣いて同情を得る
テレビでもよく泣く場面を観ますが、同じ気持には殆どなれません。何に悲しんでいるのかさえ見得てこない時もあります。悪い事をして追及を逃れる為の涙ほど情けないものは無い気がします。泣けば本当に心を改め反省していると思うのは、安易ではないのでしょうか?本当の涙は、自然に溢れ出て来てしまうものです。ちゃんと見れば嘘の涙か、本当の涙か分かります。昔は「涙は女性の武器」と言われていましたが、最近は、男がよく遣います。恵まれ過ぎていますと、少しのことでも涙が出て来てしまうのでしょうか?パレスチナの人達が見たらどう思うのでしょう*
本当の涙とは何?
よく泣く人は、優しい人間なのでしょうか?ショックを受けたとか、悲しかった、精神的に立ち直れない!などの言葉を遣い泣きながら責任追及する場面をテレビでもよく観ます。また、芸能人全てではないのでしょうが、表面的に同情した振りをして流す涙は、意図的なモノを感じてしまい、益々芸能人に対して不信感と嫌悪感を持ってしまう私です。余り芸能人の方々は存じ上げませんが?笑 実は、ゴリさんも存じ上げませんでした!ゴリさんすみません* 少し前にテレビの「やらせ」が問題になりました!私からすれば「何を今頃おっしゃっているのですか?面白くさせたり、感動させ視聴率を上げる為に編集されているモノだということを忘れていたのですか?と問いたい気持ちになります。テレビは殆どやらせです。ドキュメンタリーだって人の手が加えられていて、客観的ではないモノも沢山あります。しかし、それを差し引き自分の価値観や物差しで真実を見極め観なければいけません! 騙すつもりではなくても、受け取り方によって異なるのは致し方ないことだと思います。自分の我儘が通らなかったとか、思い通りにならなくて泣くのは、本当に幼稚です。子供が大人になった様なモノですよね!豊かになって、色々な施しをしてあげることは、必ずしも良いことには繋がりませんし成りません。学校などで何か事件がありますと「心のケア」が必要とされますが、私は、例え酷いことがあったとしても、自身で乗り越えていくことが大切だと考えます。 誤解を恐れずに申し上げれば、死ぬことや涙することは全て悪い訳ではありません。起こった事に対して、どの様に捉え、どの様に考えるのかは、貴重な瞬間だと思います。情けを知り、置き換えた悲しみに触れ、感謝の気持ちから流れる自然な涙は本当に美しい*
希薄な社会だから涙が必要?
テレビでの涙の訴えや、辛辣な言葉での誇張したコメント、評論家の下品な論評などなど、ある時は情に訴えて、それが通らなければ罵詈雑言を浴びせ掛ける社会は、温かいのか冷たい社会なのかよく分かりません。表面的で幅の狭い偏った社会を創り上げてしまいました。 泣いて社会が良くなるのなら、もう既に良くなっている筈です!笑 沢山テレビで泣く場面を見て来ましたから* 新聞や雑誌、コメンテーターなども「切り捨て」と言う言葉がお好きな様ですが、本当に切り捨てたと思っているのなら、誠実で冷静な判断が出来ない人間だと思います。大衆迎合で支持されたい方々なのでしょう?大勢が後ろについた意見なら誰でも言えます。支持されなくても本質に目を向け、批判を覚悟で進言してこそ評論家だと思うのですが?何でも言えばいいと思うのは、現代病ですね!私と同年代の評論家が品のない言葉や、感情を剥き出しにして女性を攻撃していたり、一貫性のないことを知ったかぶりをして偉そうに言っている場面を観ていますと、世も末だなあ*と何時も感じます。そんな評論家が売れっ子で、コマーシャルにも出演する様になりました。なんで人気があるのか?本当に理解出来ません。綾瀬はるかちゃんが人気が出るのは分かるのですが!笑 可愛いですもんね*昨年、筑紫哲也さんの原爆ドキュタリー番組に出演していた、はるかちゃんの叔母様を見てファンになりました。すみません。真面目に戻ります!「切り捨て」と言う言葉は本当に酷い言葉ですね*その言葉を遣う人間の人格を疑いたくなります。大企業のことは余り存じ上げませんが、中小企業では、涙を飲んで仕方なく解雇しているのです。仕事がなければ致し方ないことです。誰のせいでもありません。もしあるとすれば、大量消費社会を創っている人間一人ひとりや、物の使い捨て社会を受け入れている私達にあります。資本主義社会は、成長をし続けなければならないのでしょうか?足るを知って自制的に成れないのかも知れませんね*様々な場所で言われる「修理するより、買った方が安いですよ」は私の嫌いな言葉です。それが故に時代遅れなのでしょうね私は!
スポーツに泣くはない!
アメリカの実話映画で「プリティーリーグ」というモノがあります。戦争の為に大リーグの選手が徴兵されゲームが出来ないので、球団オーナー達は、女性大リーグを考案して立ち上げました。 「女なんかに野球が出来るか!」と考える粗暴な監督役のトム・ハンクスに、女の意地を見せ立ち向かい素晴らしい試合をする映画です。その中で、ある大人しい選手がプレー中、セカンドに投げなければいけないのにホームに投げ判断ミスをしてしまったのです。そのプレーに対して監督は怒り注意し泣かせてしまいました。トム・ハンクス監督は泣いた選手を見てビックリし呆れてこう言ったのです。「泣いているのか?泣いているのか?オレは監督から「ブタのクソ」と言われた!それも両親が観に来ている時にだ!それでオレが泣いたと思うか?NO!NO!何故だ?野球に泣くはないからだ!」と・・・注意されて泣く様な奴にスポーツをやる資格がない!それが嫌ならスポーツはやるな!と言いたかったのでしょう?トム・ハンクスは、私が一番好きな俳優です。あのコミカルな演技で何時も笑わせてくれます。以前、私の母が「あんたに似た映画がやっとった!」と言うので、何かと尋ねたら「ターナー&フーチー」という犬と人間が助け合う内容の映画でした。私は、ブルドックに似たボクサーという短毛の犬が大好きで、今までに3匹と暮らして来ましたが、そのボクサーによく似た大きな犬とトム・ハンクスがコメディータッチで事件を背景に親友になって行く物語です。この話をしますと長くなりますので、またの機会にしますが、前述のトム・ハンクス演じる監督像は、私の理想でもあります。それは、飾らず実直で喜怒哀楽がハッキリ伝わり、ユーモアのセンスと厳しさが同居する人間味溢れる監督だからです。周りに左右されることなく、信念がしっかりとあり自信に満ちています。最後の試合で負けた時も「良く戦った!ナイスゲーム」と言葉少なく労わる姿がカッコ良かったです。
言葉を欲しがる風潮
最近のテレビでもそうですが、やたらと言葉を相手から求めて引き出そうとする傾向があります。感動的な言葉や、深い意味があると捉えられそうな言葉などを世間が期待していると感じています。如何にも値打ちを付けて言われたり、持ち上げ様としているのでしょう? 私はそれが、ムズ痒くて堪りません。言葉に踊らされている気がします。背中を押す言葉だったとか、この一言が私を変えたとか、そんな簡単に意識や意志を変えられるものでしょうか?また、変えても良いのでしょうか?簡単に信じてしまい、その結果次第ではその言葉を掛けてくれた人を恨むことにも繋がると思います。誰かが自分に何かしてくれる!誰かが言葉を掛けてくれる!などの受身では何も上手く行かない様に思います。少なくともスポーツに於いては、絶対海外では活躍出来ません。そんな甘い世界は、日本しかないのですから~人間は、飽くまでも自分の判断で生きるものだと思います。そうでなければ人生とは何の意味があり、何の価値を見出すのでしょう?ある人の言葉が人生を左右することは多少あっても、それが良く出る時もあれば、悪く出る時も半分はあるでしょう!その一言で共感したり、信じて崇拝する人は、逆から見させて頂きますと、ある一言で批判したり、一つの考え方で全てを否定する人間なのだと私は思います。他力本願な生き方です。人様の御蔭という考え方と、人のせいにする考え方とでは大違いですね!私が二十代の頃、そんな方々を沢山見て来ました。 さっきまで「あの人は素晴らしい」と褒め称えていたのに、自分の都合次第で「あんな酷い人とは思わなかった!」などと変節する人間に対して、不信感を持ったことを強く記憶しています。そう成りたくはないと思いました。手の平を直ぐ返す人間には成りたくはないですし、またそういう人は信じない様にしています。 本当の友人とは、例え大勢が批判していても、味方で在り続けるのが真の友人です。状況によって好き嫌いや善し悪しを変える人間を私は好みません。
朝青龍の行き付けの料理屋さん
私は、悪者にされている朝青龍さんが勝ち続けていて、嬉しく思っています。先日、横綱がよく行くお店にある番組が取材をしていました。その女将さんに愚問を繰り返すレポーターの方が最後にこう言ったのです。「朝青龍関に何か言葉を掛けてあげて下さい?」 その質問に対して女将さんは「何もありません。言わなくても横綱には分かりますから*」と、おっしゃっていました。立派な女将さんです。私の実家に帰りますと、私以外は全員朝青龍さんのことが嫌いの様です。その理由は、あのダメ押しをすることに対し嫌悪感を持っているのでした。その気持ちは解らなくもないのですが、私はこう擁護するのです。外国から一人で来て、日本人には解らないモノも沢山背負って必死で生きておられると思う!異国の地で言葉も解らなく、文化の違いから誤解を招くことも当然あったでしょう*目に見えない差別もきっと経験されたのではと想像出来ます。横綱という立場に、品格を求めるのは当然ですが、負けたら終わりという気持ちが強い為に、ダメ押しをしてしまうモノではないのでしょうか? それは、ちゃんと止めを刺しておかないと、勝負は分からないのもだし、自身に油断が生じ弱くなってしまうのが分かっているのでしょう?豊かな日本では理解されないのかも知れません* 品格がないと思われようが、命懸けで勝負していれば仕方がないことです。人生を懸けた真剣な戦いは我々だって観たいと思いますし、また面白いと感じる筈です。 命懸けの戦いをする朝青龍は、今の甘い日本の体質や忘れ去られたスピリットを教えてくれているのだ!と私は想うのです。頑張れ!朝青龍関*誰が何と言おうと私は貴方の味方です。同じ様なクダラナイ質問や、皮肉った意地悪と思える質問にも耐え忍んで下さい。男は我慢が大切ですね*辛いけど・・・以前の相撲を観ていた人達は、勝負に対する拘りが伝わらなかったからこそ、人気が低迷したのだと思います。その根本は、八百長があったのか無かったのかは知りませんが、真剣勝負や命懸けの戦いが観られなくなったから、気持ちが離れたのだと思います。しかし、今はどうでしょう?朝青龍のお陰で大変面白いですよね!涙の話ではありませんが、本物か?偽物か?必死なのか?惰性か?は瞬時に伝わってしまうものです。
山下泰裕選手の涙
柔道の山下選手が、初めてモスクワオリンピックに出場する機会が訪れた時に、政治的な問題から日本が不参加になってしまいました。とても落ち込んでいたところ、それに追い討ちを掛ける様に日本選手権の決勝で骨折をしてしまいました。新聞や世間は「山下、二重の苦しみ」と言われていましたが、本人は全く違う受け止め方をしていたそうです。山下選手曰く「これは休んで癒せということなのだ。だから苦しみでも何でもない」と・・・世間何て勝手な解釈をして満足するものだなあ?と改めて感じます。また、過去を振り返り質問をするインタビュアーに対し、こう述べられたのです。「過去の詳細を事細かに覚えているのは、気味悪い!沢山いますよ、過去の栄光にしがみ付いている人達は*私は、クソ食らえ!と思います。人生はチャレンジの連続で前向きに生きて行かなければなりません。」次のオリンピックの時、ケガをして足を引きずりながら金メダルを取った時の涙の訳が今やっと分かりました。今まで私は、誤解をしていたのです。あの試合の時、相手の選手が怪我した足を攻撃しなかったとか、攻撃したとかの議論が日本でされていた為に、私はウンザリして不快な思いを山下さんに持っていたのです。本人には関係ない所で?私は、戦いなのだから弱い所を攻めるのは当り前ではないのか?それが嫌なら戦わない方が良い!相手に対して失礼極まりないと考えていたのです。しかし、お話を聞いてあの足をケガした直後は、相手に知られてはいけないと必死だったそうです。悲劇的なことを演出して感動を見せたのではないことが、恥ずかしながら本当によく理解出来ました*本当に申し訳ないことです。ごめんなさい山下さん。
泣かない野茂選手はやっぱり素晴らしい
野茂選手は、引退の華々しいセレモニーをしないで引退しました。多分そういうことが、お嫌いなのでしょう?引退会見さえしませんでした。ボロボロになるまで戦い信念に基づき選手生活を終えました。ある番組で、そんな野茂選手に「成功の秘訣は何ですか?」とまた、クダラナイ質問をすると「秘訣はないですね、ただ行動するだけです。」と答えておられたのです。御尤もなことです!笑 どうして、成功者に対して直ぐ秘訣などを聞きたがるのでしょうか?お聞きして、真似をすれば成功する?と考えているのであれば、余りにも安易で愚かなことです。この前のオリンピックでも、100メートルのゴールドメダリストは、何を食べてあんなに早く走れるようになったのか?と真剣に取材する姿を拝見して、思わずため息が出てしまいました。綺麗な肌の人に化粧品は何を使っているのですか?何てお聞きしても、どんな生活習慣をされているのかや、食生活などは聞きません。「ローマは一日にして成らず」で、何かマネをしても劇的に変化することは難しいことです。良い習慣を身に付けてこそではないでしょうか?楽をして何事も叶う訳はないと思います。スポーツでも一流と呼ばれている人達は、必ず自分独自の練習を見えない所で行っていると思います。それが地味なモノもあれば、何の為の練習なの?と不思議に思う様なこともあるでしょう!スキー選手が日本舞踊で集中力を養ったり、サッカー選手がテニスをしてバランス感覚を磨いたり様々です。要するに、一つの事に邁進していても、一つのことに囚われていてはいけない!と言うことではないのでしょうか?あらゆるものに興味を持ち、その探究心が人とは違う考え方や発想を生み出して能力を伸ばすのでしょう?クラウドの子供達に口を酸っぱくして伝えています。「コーチの言うことだけをしていてはツマラナイでしょ?言われてないことに気付いたり、思い付いたりしたら、どんどんやっていいんだよ!また、そう出来ないと良い選手、良い大人には成れません」と・・・恵まれている環境と申しますのは、本人には余り自覚が芽生え難いものです。当たり前になってしまいます。従って良い環境ではないのかも知れません。ある動物学者曰く、「野生動物と人間動物の違いというのは、自覚があるか、ないか?の違いである!」とおっしゃっていましたが、私は疑問に感じています。自覚が本当にあるのだろうか?私自身も含めてそう思うのです。乞う人間を作ってしまうのが、恵まれた環境だと思います。
心で泣く時
私が心で泣く時、それは嬉しいことと悲しく切ない気持が混在してしまう時です。この仕事をさせて頂いていて、二度ほど経験があるのですが、元生徒が訪ねて来てくれ、親にも先生にも相談出来ない思春期の悩みを打ち明けてくれた時です* プライバシーと言うよりも、信義の意味から詳細を話すことは出来ませんが、本当に嬉しいと思う反面、苦しみを分かち合ってあげられない自分を憎むのです。何故なら、同情することをせず、解決方法を毅然と伝えなければその子の為にならないとの考えがあるからです。以前、ある有名クラブの方のお話を聞いたことがありますが、何故私のクラブには、卒業生が来ないのだろう?ダダの一回もない!と不思議がっていたそうです。それを聞いていた方が、私にこう教えてくれました。「あのクラブは、厳しいのと愛情を掛けて育てないからだ*」と・・・。それからすればクラウドは幸せなのかも知れませんね*卒業生達が、会場に遊びに来てくれたり、キャンプ合宿にまた行きたいから手紙を送って下さい!などと言ってくれますから* 昨日も、ある卒業生が私を訪ねて来てくれました。その子には、また違う意味に於いて特別嬉しく感じたのです。何故なら、6年生がもう直ぐ終わって卒業があと数か月という時に、その子の将来を私が心配する余り、自虐的な振る舞いや発言をキツク叱ったのが原因で辞めてしまったからでした。 しかし、その子は一人で会いに来てくれたのです。特別何かあった訳ではないらしいのですが、ただ先生いるかな~と顔を見に来ただけと申しておりました。ちょっと低くなった声で!笑 黒の学生服が眩しかったです*こんな時、私は恵まれているのだ*と感じます。
PR
この記事にコメントする