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ダラシナイ書き方ですみません*やっと全て書き上げました。これからは、なるべく順序正しく行きます。

基本を深く考えて

先ず、何でも「基本」はあるのでしょうか?ここからがスタートだと思います。基本が大切であると、大抵どんな指導者でも口にしますが、指導者が何処までその「基本」となるモノを深く理解し、どの様な意味で言っておられるのか?は本当に疑問です。「これが基本だ!」に騙されてはいけません*笑 騙すつもりはないのでしょうが?ただ「よく使うから」や「一番大切だから」などを理由に押しつけますが、本人の状態や進歩の状況などによって、基本とされている意味や感覚が違うことは申し上げるまでもありません。おそらく「指導上便利」なのでしょう?ある武術家は、「基本が大切だと言えるのは、達人に成って遣える言葉だ」と言われます。私には、何となくその言葉の意味が理解出来るのです。どうしてなのかと申しますと、例えばサッカー指導の一例で取り挙げますと、キックの中でインサイドキックが基本と言われますが、幼児や低学年、また体の成長の具合にもよりますが、高学年でも股関節が開き難い為、中々習得出来ないことが往々にしてあります。にも拘らず、基本だ!基本だ!と子供達の上達段階を無視し同じことの繰り返しをさせています。決してやらせて見ることが悪いことではありません。当然、出来る子供もいます。しかし、形は出来ていても、その蹴り方の精妙な部分は無視され、ただ単に出来れば良いと思われている節が感じられるのです。基本は形ではないと思います。微妙なタッチや角度、色々なボールの状況に応じて、如何に俊敏に変化させて蹴ることが出来るのか?などなど・・・本当は、選手の上達レベルによって、アドバイスの仕方が変わらなければウソだと思うのです。何故基本が大切なのか?と考えた時、きっとその中には、沢山学ばなければならないことや、或いは術や技のヒントがそこにあるのでしょう?更に潜在している身体能力を開発するキッカケがあるのではないでしょうか?ナント申し上げればよいのでしょう?体の使い方が変わる?体の使い方に質の転換が起きるのだと思います。上手く申し上げられませんが、確かに基本と言われるモノを疎かにしてはいけないと思いますが、しかし、一般的に基本を練習鍛練することは、「型」を「反復練習」して覚えさせてはいないでしょうか?上手くなるとは基本反復練習の先にはなく、体の使い方の質が少しづつ進化して行くことだと私は経験からそう感じています。ですから、何も工夫のない基本練習や反復練習を強要する指導者やコーチを私は信用しませんし、その様なことしか出来なければ、指導者失格だと思います。私が一番失格かも知れませんが*笑 人間は生まれた時から、普段の生活習慣や環境の中で様々な体の使い方を覚え自然に身に付けて行きます。 最近の子供達は、テレビゲームの影響で身体機能そのモノが養われていないことが多いのですが!笑    その知らず知らずの内に身に付いたモノから、脱却?質的に変化させる為には、様々な練習を通して時間と労力が沢山掛かる筈です。どんなスポーツや武道でも動きの中で、「分かっていながらもやってしまう」ことや、「分かっていても出来ない」ことがあります。そういったことが出来る様になる為に、もしかしたら「基本」があるのかも知れませんが、私はその辺にも疑問を抱きます。人間は周りの所作を見て、自分自身と向き合うことをしなければなりません。真剣に学ぶのであれば尚更でしょう!大工さんや、理容師さん、寿司屋さんの見習いなどは、一昔前まで、今の様な手取り足取りで教えてはくれませんでした。掃除や皿洗いなどの雑用をしながら、親方の所作を見て観て自分の中で演じながら動きの意味を学んだのだと思います。ですから数年経過した時に、親方から「よし、握って見ろ!削って見ろ!切って見ろ!」と言われた時、もうちゃんと握れたり、削れたり、切れたりするのです* 見習うとは「見て習う」と言うことだと、私は若い時に教えて頂きました。 今現在の様に、「聞いて習う」のとは全然違います。「聞いた方が早い」や「聞いた方がよく解る」の考えでは、詳細なことや、精妙な部分、または言葉で伝え切れないものは何も見えませし、身に付きません。本当に勿体無い! 指導することは教えないこと何てよく言ったものです。私は、どんなスポーツや武道を習っても、お聞きすることに躊躇があります。それは、聞く前に自身で試して、自分なりの試行錯誤や工夫する努力を怠ってはいないのか?と問いかける自分が存在するからです。  今、通っている中国武術や弓道でも、この立ち方で良いでしょうか?などと言う簡単な事を、何週間も掛けてやっとお聞き出来るくらいですから*何時も先生の所作を皿の様な目にしながら見て集中し、自身で模索したり、真似をして体と対話し鍛錬に励みます。全部、頭で解ろうとしては前に進みませんし、進化は望めないのでしょう?また簡単にお聞き出来たりしたモノは、簡単に忘れてしまいます。これは何時の時代でも同じです。何回も同じ質問をしていては失礼ですよね*本当に知りたい!本当に出来る様に成りたい!と思えば苦労をするのは当たり前です。そうして、出来たり、分かったりしたモノは一生忘れないでしょう!四十数年、空手一筋に鍛練した方が、私にこんなことを教えてくれました。「私は今でも、拳の握り方は本当にこれで良いのだろうか?手刀の指はこれで本当に正しいのか?悩んでいます」と・・・ こんな初歩的なことに対しても悩み続けるのですから、如何に基本的なことがデリケートなものか解ると思います。私は、インサイドキックにしても、当然大切ですから練習をします。但し、工夫を凝らし日々悩みながらですけれども*そう言えば、クラウドが出来て一年位経った頃、ナイジェリア代表のナショナル選手と練習する機会が数か月ありましたが、ゲーム中その選手のインサイドキックを受けて、とてもビックリしたのです。速くて優しいパスとは、こんなパスなんだ!と・・・私の言葉で表現しますと「高速マシュマロパス」とでも申しましょうか?笑 速いパスなのに手ごたえが?足ごたえがないのです。吸い付く様な感じです。また、パスが速い為に私の判断に時間的余裕が生まれ良い判断や正確なパスが繋げます。本当に感心しました。またその蹴り方を見て勉強し、筋肉の使い方や足の動きなどに目を凝らした記憶があります。 よく日本では、少し優れた選手を見ると「才能があるとか」「生まれ持ったもの」だとか、果ては「親が有名選手だから」「黒人の方だから」などで片付けてしまいますが、その体の機能的な部分には中々目を向けられません。諦めが早いのです!笑 残念*  私が時々子供達に裸足でゲームをさせる訳はこの辺にあります。精妙なキックを覚える為には素肌?イヤ!素足に敵いません。ボールが当たる位置が1センチズレても分かります。基本とは、本当に難しいです。分かり掛ければ、分かった以上に分からなくなる?底なし沼の様に!基本とは一体何でしょう???思い出したことがありますので加筆します。そのナイジェリア選手を身近で観察させて頂いて感じたことは、今まで育った国や生活環境の違いによってベースとなる体そのモノの質の違いを一番強く感じました。それは、頭の上に荷物を載せて運ぶ習慣であったり、舗装されていない道の生活環境、ジャングルの中や草原でも素足で入り遊んだりした経験などが、どんな状況にも対応出来るバランス感覚を養ったり、素足のセンサーが磨かれて動きの質を高めたり、遠近感を測る計る(どちらもです。)機能が高度だったりするのではないのかなあ?と考えさせられました。嫌な申し上げ方ですが人種は関係ないと思います。食べ物の習慣や、生活習慣は日々の暮らしですから影響がない筈がありません。

教えを乞う基本

私は、どんな師範や先生に対しても意見をした経験がありません。師範や先生が怖いからではなく、畏敬の念を持つからです。確かに色々な師範や先生がお見えになりますが、否定しては何も生まれせんし、それよりも最も大切なことは、教えて頂く立場を弁えるからです。これは、教えを乞う人間最低限のそれこそ「基本」なのでしょう!今は、お金を払っているからと言うことを楯に、様々な要求をしてこられる方も稀にお見えですが、それは論外です。ご意見が違ったり、ご自分の考え通りに行いたいのであれば、他でやられたら良いだけのことです。冷たい申し上げ方ですが、仕方ありません。主体性や理念のないクラブには成りたくはありません。クラウドは、やはり「子供達の将来」を真剣に考え続けることが使命だと思っています。

何か、また話が長くなる様な気配を感じます*笑 極力短く纏めるつもりでいますが、書いている内に膨らんでしまいます。辛抱強く!笑 お付き合い出来る方だけお読みください。私は器用な人間ではありませんので、軽い気持ちで書いたり、この話は妥協をして?などとはなれません。何時も「真剣勝負!」「全身全霊」でお話しています。

厳しさを求める人は考えた事がない?

私は、褒め過ぎてはダメ!とか、厳し過ぎてもイケナイ!などの一見矛盾した様なことを、このブログを通じて話しています。でも私は、至って常識を述べているつもりです*笑 日本社会は、興味や不安を煽る様な事柄や言葉を遣い、「そら!大変だ!さあ!大変だ!」と騒ぎ、それらに踊らされがちだと感じています。平和過ぎて、辛辣な?ショッキングなニュースに飢えているかも知れませんね?インフルエンザ然りです?情報に左右され、自身の判断に自信が持てないのでしょう? 私は、もし解らない事に出遭ったとしても、自身でなるべく判断し、それにより、たとえ痛手を被ろうが仕方がないと、潔く受け入れて生きています。 でも皆さん、私の言葉や話には特に?より一層?一番!気を付けて下さいね*間違っているかも知れないのに、真実の様に話していますから・・・   大分、横道に逸れましたので、本題に戻しますが、「スポーツ指導は楽しさが必要だ!」でも「厳しさも必要!」とよく言われます。私にとって指導上の楽しさとは?=「もっと知りたい?」「もっとやりたい!」という素朴な本能を少し刺激してあげることだと考えています。私が、こんなことを指導者や保護者様に申し上げますと、「イヤ、楽しさばかりではダメだ!厳しくしないとケジメがなくなる」との意見を言われます。私は、全て否定しませんが、しかし、そう言われる方ほど失礼で恐縮ですが「自分自身と真剣に向き合ったことがない人間ではないか?」と感じるのです。   本当に厳しいこととか、悲しいこと、辛いことと申しますのは、自身がどうしようもなく、行っていることではないでしょうか?自身の中で葛藤し悶え苦しんだり、妥協したり出来なかったり、執着心等々など・・・人間の性に苦しむのでしょう*芸能人の方々を余り好まない私ですが、昔、加山雄三さんが、親のとてつもない大借金を背負い抱え苦んだ自分の半生を振り返った時、「自身に苛まれる事ほど辛いことはなかった*」などと言われていました。本当に厳しい事と言うモノは外圧の厳しさよりも、厳しい場所に自ら追い込んで行くことの方が余程厳しいのです。逃れられない* 子供達の話に戻しますが、どんなに自分勝手でヤンチャナ子供でも、少しづつ上達するに従ってプライドも自然に芽生えて来るものです。そして、自分に厳しく成って行きます。天狗になるのとは違います。勘違いをして、天狗になれば指導者が雷を落とさなければなりません。 自分が一番上手いなんて思う選手が居たら、鼻っ柱をパシッ!と折っておかないと将来が心配です*不幸な人生を歩ませてはいけませんね!

指導者の厳しさは心地良い

「厳しく」と言うのも色々ですが、スポーツ指導でありがちなことは「怒鳴る=教えている」と勘違いすることがよくあります。怒っていれば指導している様に見えますし、観ている保護者さんも「ちゃんと教えられている」と言う錯覚に陥るのでしょう?安易なことです。一番不幸なのは子供達ですね*本当に可哀想です。叱られることが悪いことではありませんが、何も勉強しない指導者の自己満足の餌食になっている様に見えてしまいます。スポーツは指導者の為にあるのではなく、人生を楽しく豊かにすることが基本にあり、また子供達の成長を健全に育成する側面があると思われます。それを、大人たちは「勝ち」と言う表面的な価値が全ての様に思わせてはいないのでしょうか?イギリスのサッカー理念「サッカーは、子供を大人にして、紳士にするスポーツである」決して勝つ喜びを教えるのではありません。それは、とても小さな小さな一部分に過ぎないのです*

体術の進化

体術の稽古で、自分の手首と相手の手首を合わせ、お互い崩されない様に戦うモノがあります。私は最初、力で捻じ伏せてはいけないと分かっていながらも、意識が働くと同時に力を使っていました。しかし、3か月くらい前から、力ではなく自分の体重の重みを一瞬の内に相手に掛けるコツと申しましょうか?術が身に付いたのです。相手が90キロの相手であろうと、崩すことが出来ます。先日も、120キロある空手家にお願いをして受けて頂き崩すことが出来ました。しかし、出来る様になったと思っても、自分の技に100%の自信が持てている訳ではありません。ですから、強そうな人を見掛けますと、ついついお相手を頼んでしまいます!笑 本当に迷惑ですね* 体内部のことは、目に見えませんから稽古の成果などは分かりません。内部の操作性を鍛練することは、一般的に「鍛える」のとは全く違います。腕立てや腹筋、バーベルを持ち上げる鍛え方ではなく、体の動きをより効果的?機能的?別々に動かし、結果的にそれらが一つの目的として協力することになる!多機能的にすることで、通常の力と言う概念を超えた力を引き出すのだと感じています。その体の操作性で面白い例え話がありますのでご紹介します。 「大きな船の上をトラックが走り、その荷台の上を自転車が走る様な体の使い方」だと表現されていました。私流に申し上げるのなら、「動いている電車の中を走ってボールを蹴る」感じです。そんな技をどう子供達に伝え、どの様に指導して行けば役に立つのか?と模索中です!相手とのボールの奪い合いや、コーナーキック時のゴール前でのせめぎ合い、浮き玉の競り合いに対して使える様にと考えています。

手裏剣術の進化

「手裏剣がどうして、スポーツに役立つのか?」と考えてしまえば、ただそれだけで終わってしまいます。表面的に見ればサッカーには何も関係なさそうでが、しかし、それが大いにあると私は思っています。それは「スローイング!」  スローイングは、フィールドプレーヤーが唯一手を使えるプレーです。余り指導に目を向けられないプレーの一つだと感じていますが、海外ではパワーと体格にモノを言わせ、ロングスローをし、決定的な場面を生むこともあります!但し、助走が長い為に、ロングスローをすることは読めます!笑  長い距離のボールが投げれることは、守備を広範囲にしなければならないので、相手にとってはとても驚異になる筈です。 そこで、体格差のある選手でも、手裏剣術の技を習得すれば十分応用が出来ると思い立った訳です。強制的に投げ難い体勢から飛距離を伸ばす鍛練をするのです。そして、体内部の操作性を学び、沢山距離を走らなくても遠くまで投げられれば、小さな選手でも意表を突くことが出来るのではないのでしょうか?世界と肩を並べたいのであれば、強い国のマネをしていては死んでも追いつきません。何故なら、その強い国は、日本以上にもっともっと強くなる為の努力を惜しんでいませんし、死にモノ狂いで研究模索しながら試しているのですから!そう理解すれば、日本独自の発想力を生かし、このスローイングの様な所にも目を向けた方が、賢明ですし楽しいのではないでしょうか?違う角度からサッカーを見ても良いですよね*「日本の奴らは何を仕出かすか分からん!気をつけろ」と・・・  去年の「マンU VS ガンバ大阪」 の様に舐められ切った戦い方をされて悔しいですよね!せめて必死に戦い合える力をつけたいものです*スポーツ的な考えでは、大きく捻り、捩じことにより大きなパワーを生み出そうとします。でも、それでは幾らパワーが出ても、プレーの立ち上がりに時間が掛かり過ぎる為、相手にマル分かりです。「あっちに投げるよ」と教えている様なものです。 そんなモノは命懸けの武術では通用しません。何時か動画でお見せしたいと思いますが、人間の体の使い方というモノは本当に面白いです。そして不思議です。色んな可能性を秘めているものですね!最初の頃は、力一杯に投げますと、棒手裏剣が回転してしまい中々的に当たりませんでした。手首をしなやかに保ち、遅れ気味に剣を離なし、軽く投げれば何とか命中していたのですが、余りにも速度が遅過ぎました。でも最近は、両足を浮かした感覚で、全体重を剣先に乗せている感じがします。と言うよりも、刺さり方が奥まで刺さっているのですから、きっと威力が出せる様に成ったのでしょう!音を立てて跳んで行きます。生きモノの様に! 後ろに振り被らないでもパワーは出せるものですね!!!まだ達人の域には達していませんが、毎日鍛錬して行きたいと思います。距離が遠くなればなるほど難しく、刺さらない時も沢山ありますので、まだまだこれからですね*皆からは、奇人変人扱いを受けています!笑 雨にも負けず、風にも負けず、冷たい視線にも負けず*笑

剣術の進化

剣術の稽古で、木刀を毎日100回振っていますが、一年前に比べますと振り方が全然違って来ています!立ち方や、指使いは元より、体の内部の操作性が変化した実感があります。見た目には、そんなに変わっていない様に見えますが、振っている私からすると、「小さなカナヅチ」と「大ハンマー」を振っているくらい違うのです。同じ振りでもです。ご説明し難いですね?ある剣術家がこんなことを教えてくれました。「素人が思いっ切り木刀を振るのと、鍛練された者の振りの威力はまるで違う!小さな振りでも一撃で相手を殺すことが出来るのです。」宮本武蔵先生の例でも解る様に、殆ど木刀の一振りで相手を撲殺しています。相手が「真剣」なのにも拘わらず、何故、先生は得物に木刀を選ばれることが多かったのか?と、不思議で私はよく考えてしまいます。「ワシが真剣で勝負に挑んでいるのに、木刀とは?バカにしているのか?」と言う心理戦の為なのか?又は扱い易かったのか?血の雨を降らせたくなかったのか?色々なことは考えられますが、私が感じます所、「二天一流」を編み出された先生ですから、おそらく木刀の方が、どんな相手に対しても、またどんな意表をつく戦法でこられても、対処し易かったのではないのかなあ?と、今はそう感じています。「物や道具の手入れを怠ってはならない」などの教えを門弟や弟子に伝えてはいますが、良い物に拘りはなかった様です。物を大切にすると言う本質を教える為、大工さんが使う「カンナ」で道場破りと戦ったことがあったそうです!対峙し、そして体が入れ替わった瞬間にカンナで帯を切り決着してしまいました!その技に感心する弟子たちを一喝し、道具の手入れを怠らない大工さんを褒めて「良く切れる様、カンナの手入れを怠ってないからこそ、武器として使えるのだと・・・」*訂正があります。鉋(カンナ)ではなく、鑿(ノミ)でした。もう一度、本を読み直して見ましたら、挿絵が鉋だっただけでした!笑 私の記憶は本当に当てになりません。信用しないで下さい* 武蔵先生が使ったその鑿を、大工さんは家宝として神棚に祭ったそうです。そして、「武蔵帯断ちの鑿」として、今も子孫が大切にしているそうです。

パンチの違い

パンチも色々で、空手の突きや、ボクシングのパンチと多種多様です。空手の突きは、引き手をよく師範から注意された覚えがあります。ある程度の距離を置くことで、タメを作り威力を出すのでしょう?しかし、今は少し変わって来ている様です。それは多分、実戦となると相手に気配が読まれてしまい、当たり難いからでしょうね?その点、ボクシングのパンチは、自身の拳と相手との距離が短くなりますので必然的に当たり易くなる筈です。しかし、ボクシングのパンチ理論を武術的な観点から見てみますと否定されます。地面を蹴って捻り、その力を腕に伝えることは、その場に居付いてしまいますので、やってはならないとなるのです。スポーツ的には、正しいと信じて疑わないことでも、違う角度から見れば全くナンセンスなこともあります。   何でもそうだと思いますが、あらゆる物事の本質を見極める為には、その物事から離れて考え見ることは、とても大切なモノの見方ではないでしょうか?   キック力を生み出すことに関しましても、ただ筋肉を太くしたり、ウェイトトレーニングに頼るのではなく、もっと他のアプローチの仕方があっても良いと感じます。必ずしも筋肉隆々の選手がパワーがあり、俊敏で優れてはいないのですから*そう言う意味に於いて、中国拳法の勁力は興味が湧いてきます。体内部の力を引き出し、様々な体の働きの能力を活性化させながら、エネルギーに変えます。その力を使えばきっと少林サッカーの様な信じられないプレーも夢の話ではない気がします!スポーツ選手の選手寿命は短い?何て言うことが当たり前の様に信じられていますが、全て皆がそうではありません。特に武術家などは70歳を超えても、立ち合い戦ったと言う記録や証言が残っています。生涯現役で在り続ける為に、負荷を散らす正しい鍛え方で毎日鍛練されたのだと思います。直ぐに効果や成果が出る様な「筋力トレー二ング」を信じて鍛え続ければ何処かで故障し、治らないケガをしてしまうのではないでしょうか? 武術家には、一週間休んだり、休暇などはありません。ですから、取り戻す為の特別トレーニングなどは必要ないのです。何とかキャンプだ!と暖かい地方や外国に出掛けて贅沢で甘いことが行われます。怪我が怖くて暖かい所に行くなんて軟弱者のすることです。きっと昔の武術家から笑われています。寒くても稽古は出来ますし、寒いからこそ工夫することもあるのでしょう?よく何々選手は正月を返上し、自主トレを始めました?暖かい沖縄で!何て称賛されるニュースを聞きますが、「自主トレ」なんて当たり前のことで、決して褒められることではありません。鍛練とは毎日することです。歯を磨く事と同じ様に!誰の為にしているのか?恥ずかしくなります。何故か私が?笑  
 一般的に今のスポーツ選手は、試合が何時何時にあるからと、余裕が生まれサボります!笑 そして、試合が近づけば時間がないと無理をして、急に鍛えるから「肉離れ」何て言う恥ずかしい怪我もしてしまうのでしょ★武術家は、今日、明日、何時挑まれるのか?は分かりません。だからこそ、今その時を大切に生きてこられたのだと察します。

ブロック割り

私が空手を習っていた十代後半の頃、瓦割りやレンガ割りに挑戦したことがありました。しかし、相手は動いているのだから、実践では何の役に立たない事に気付きましたので執着して稽古しませんでした。そう言えば、その時に、レンガを投げて割ろうとして、右手中指の第二関節に角が刺さった経験があります!笑  やはりその時から、行動がズレていたのです*しかし、今はコンクリートブロック割りに挑戦しています。 何とか今年中に割りたいと思っています。 何故、そんな馬鹿な事に執着しているのかと申しますと、前述した勁力や内頸の力を実践したいからに他なりません。体の勢いを全く利用せず、手をぶらりと下げ、丹田の力と呼吸力によって割りたいのです。 もし、その力が出せれば、きっとシュート力に活かせたり、体当たりをしてくる相手にも使えることを実証出来ることでしょう!その一念で取り組んでいます*バカですよね!笑 

猪木さんのダイヤモンド

私は、どんなことが目の前に起こっても、また、どんな災難が降り懸かろうとも、大抵は楽観的に構えてしまいます。バカですから!笑  一旦、物事が動き出した歯車の回転を直ぐに戻そうとしても、中々止まりません。先ず止めるまでにとても時間が掛かります。そして、それを逆に回転させるまでには、これまた大変な労力を必要することが分かっているからです。時が経つことで解決されることもあるでしょう?そんな時、「大したことはない!」が私の口癖です。  猪木さんの口癖は「どうってことないよ!」だそうです!笑  私とは全然レベルが違いますが、何十億円もの借金を抱えても「どうってことないよ!」と、笑い飛ばせ日々淡々と生きる姿勢は、とても強い生命力を感じます。尊敬します*  ある高僧の説教の中に、「悟りとは、何時死んでも良いことだと思っていたが違った!悟りとは、どんなことがあろうと平気で生き貫くことである。」 また更に、「真理とは、黙って実行し、やるべきことをすることなのだ」と、説いておられました。猪木さんは、きっと悟りを開かれているのですね! 様々な辛い経験や命懸けの戦い、押し潰されそうな出来事を乗り切ってこられたからでしょう?その猪木さんのお話の中で、こんなことが御座います。「先ず、1カラットのダイヤモンドを見せられれば、凄い綺麗だあ!と思っていても、次に2カラット、3カラット・・・と見せられる内に、1カラットの輝きが色褪せてしまうものだ!だから私は、最初から10カラットのダイヤを見るのです。そうすれば自身に基準が作れ、自分なりの判断が出来る様になる・・・」 人と違う事して、全て非常識なら新しいことなど生まれません! 目に見えないモノを想像して、新たな道を模索していますと、世界が開けて固定観念=常識に縛られていた自身に気が付くこともあります。猪木さんのおっしゃることで、私が一番好きなモノがあります。それは「花が咲こうと、咲くまいと、生きていることが花なのだ*」と言う言葉です。人間は、志を持って様々なことにチャレンジをするのでしょう?医者に成りたい、弁護士に成りたい、歌手に成りたい、農業をやりたい、先生に成りたい、道路工事をしたい、うどんを作りたい!どんなことに興味を持ち、夢中になれるのか!そこが大切なのだと私は思います。 夢中になれるものと出会えた人間は幸せですね*その中には、成功もあれば失敗も当然あります。叶わなかったり、出来ないことの方が多いのかも知れません。しかし、生きているだけで花だと気が付けば、考え方も変わり、「生きる道」を自分なりに見出せるでしょう!職業の種類は関係なく、立派な職業などと言う定義はありません。そんなこと誰が決められるのでしょうか? 私流に変えて申し上げれば、「花に大きい、小さいはあっても、咲いているだけで花なのだ*」 誰にも聞かれていませんが!笑 ちなみに私が学生の時には「白いマーガレット」と言うが花が好きでした。今でも好きですが*おそらく白と黄色の配色が心を奪ったのでしょう*でも何時しか社会の荒波に揉まれ汚れる内に、真っ白い「芝桜」と言う小さな花を好む様になっていました。目立つ花ではなく、さり気無くひっそりと咲き、健気でとても可愛いく綺麗な花です。 そんな女性がタイプです! 聞かれてませんね* 失礼しました。アハハ 正気に戻りますが、花の話は私に似合いませんので止めておきます。 私が似合うのは、「鼻水」とか「鼻血」くらいです☠ 

孤独の戦い

先日、三鷹高校の校長先生のドキュメンタリー番組を偶然観ました!珍しく熱いモノが止まりませんでした*自分の保身を顧みず、戦う姿は本当に美しい***こんな先生も今時いらっしゃるのですね!心から感動しました。権力を笠にイジメられるのは、何時も真面目な方が多い様に感じています。反社会的な方々には、認可や許可を簡単に下します。本当に理不尽な社会構造です。言論の自由とは、言論弾圧とも聞こえます。平等などこの世の中にないことは承知しています。生まれた時から、目が不自由だったり、病気に掛かっていたりする人間がいるのですから*寿命だってみんな違いますよね!また、男性より女性の方が平均8年も長生きするのは何故でしょう!笑   自然の摂理や歴史を無視して逆らえば、必ずと言ってよいほど、シッペ返しがあります。平等の名の下、安易に地位の向上を図ったり、システムの改善をしても良いことばかりではありません。話を戻しますが、番組を最後まで観て「昔の共産国」や「軍国主義国家」になった印象を受けました。権力者の統制の中、命令が出されれば黙って従い、また部下に通達していました。個人個人に考えさせない国を作りたいのですかね?校長先生の苦悩は測り知れません*「自分の考えを持ち行動出来る」為の教育をしている立場の人間が、自分自身の考えを口に出せない教育って、一体何でしょう?大人の自分が出来ないのに子供に「やれ」とは言えないですね★

死者の数

思考停止と同じ様に、「感覚麻痺」や、対極に「過剰反応」と言うこともあります。 人間は状況に慣れてしまえば、沢山の死体を見ても驚かなくなってしまうそうです。感覚が鈍って来るのですね*「一人殺せば殺人で、100人殺せば英雄になる!」なんて何処かで聞いた覚えもあります。一人、二人と殺して行く内に慣れてしまうのでしょう?それとは次元が違いますが、「何かして貰う」と、初めは「~して頂いた」と思えることも、何時しか当たり前になり感謝すらしなくなります。「ありがとう」の気持ちを忘れた人間は可哀想です。幸せとは、小さな小さな思い遣りや、ちっぽけで些細な人の優しい気持ちを感じることが出来るのか?だと私は感じます。他愛もないことが「ありがたい」***最近のニュースを聞く度に、国の施策を期待する街の声をよくお聞きします。誰かが何かしてくれるとの期待?不満?をお聞きしていると、この国の危機を感じるのは私だけでしょうか?補助金や助成金を望んだり、00手当、ポイントなどなど、みんな施して貰おうとすることばかりです。また、エコだ!エコだ!と騒ぎますが、本当にエコに参画しているのかは疑問です。高いお金を払ってまではしない!人類のことを本当に考えているとは思えません?何かのついでですね!笑 自分の利益と天秤に掛けている様に見えてしまうのは、きっと私が穢れているからだと思います!笑 自分に都合が良いことには「エコ」と言い、苦痛が伴うことには無関心!電化製品は使いたい放題?頭の良い現代人は誰よりも早く算盤を弾き、打算的な裏側を上手に隠して行動します。何が「エコ」なのでしょう?「エゴ」の間違えではないのでしょうか!笑 水で走る自動車とか! 或いは馬に乗るとか?笑 皆、農道に返れば複雑怪奇なモノから解き放たれる様な気がします。  小手先の処置で地球が救えるのなら良いのですが、そんなに甘くはない筈です。

経験とは?

先日、スタッフを募集しましたら、30名近く沢山の応募がありました!不況のせいなのかも知れませんが、それだけではない様に私は感じています。その時の面接のことで、考えさせられた事がありますので、少しご紹介させて下さい。 それは、三十半ばの真面目そうな方の話ですが、私は履歴書を真剣に見させて頂き経歴を詳細にお尋ねさせて頂きました。一通りお聞きして、私は本当に勿体無いと思ったのです。 その訳は、最初、自動車修理工に成りたいと、専門学校に行き勉強し、そして、その甲斐あって、ある大手自動車会社の修理部門に就職が叶いました。でも半年もしない内に辞めてしまったのです。私は、「何故こんな良い会社を辞めたのですか?自分の夢が折角叶ったのに*」なんて尋ねますと、「自分は、修理の勉強を学校でして来たのに、全然修理をやらさせてくれなかったことと、納車などの雑用ばかりで面白くなかったからです。」と答えてくれました。 正直な人間だなあ!と内心思いましたが、実直な人間だからこそ、とても残念でなりませんでした。大きなお世話だろうと考えましたが、ついつい私は、「それは当たり前だと思うよ!大切なお客さんの車の修理をいきなり入社したての新人に任せられないのは当然だ*会社の信頼に関わることだから・・・学校で幾ら勉強して来たと言えども、実務は違う・・・」  高校を卒業してからでも、お金を出して勉強をさせてくれる豊かな環境が、安易で諦めの早い考え方にしてしまうのでしょうか?そんなことを私がして貰ったら、石に噛り付いてでも辛抱して遣り続けることでしょう!

高い技術が継承されない訳

何十年前のことでしょう? 国が「見習い制度の廃止」をして、最低賃金の設定を設け厳しく取り締まる様になりました。そして、その結果、様々な弊害を生み出したのだと私は思っています。「モノづくり日本」の衰退が叫ばれ続けていますが、政策自ら、自国の首を自分で絞めたのではないでしょうか?見習う側の地位向上をしたが為に、技術継承し難くなってしまいました。何故なら、私の経験だけで申し上げますと、「神技を持つ技術者」は、大変失礼な申し上げ方ですが、余りご商売が上手くありません。 (でも私は、そういう不器用で頑固な方が大好きです*)  商売の駆け引きが不得意な上、お金では動かない真のプライドあります。 一つの工程を省けばコストが下がり儲かりますが、質は落ちて長持ちしないから、意地でも良い物を作ろうとするでしょう*でも、その崇高な精神が逆に利益を生み出さない結果を齎します。従って資金に余裕が無い為、次世代の後継者を雇えなくなる!即戦力なんて聞こえの良い言葉ですが、私は嫌いです。地道に何年も何年も下地を作り、失敗を繰り返し、試行錯誤や偶然起こったことなどをヒントに閃き、物や道理の本質を知るのだと思います。そういうことを経験しないで一人前になったとは言えません。 「プロフェッショナル」とは?未知のモノやどんな状況にも工夫対応出来、最大限のことを成し遂げ、何とかしてしまう人間だと思います。 そういう人間を育てるまでには、大変な時間と労力が必要です。何にも出来ない小僧の内から、一人前の賃金は払えない*その新人は利益を生みませんし、また儲けはないのですから!消費社会では、次々に買い替えて貰わないと経済が成り立たなくなってしまうのでしょうか?経済学者ではありませんので、よく解りませんが「良い物=長持ち」の価値観ではなく「良い物=便利で買い替えやすい安い物」なのかも知れません?厄介な構造です。

変な自信?

今の若い人は、何故か変な自信がある様です。よくそんなお話をお聞きします。 床屋さん、修理屋さん、飲食業の方など・・・そんなお話を聞いた時、私は、こんなことを言ってしまいます。 「そんなに自信があるのなら、最後まで人の力を借りずに自分一人やってごらん?と言えば良いのに」 何て驕った進言をしてしまいます。 自信過剰な方や、親から厳しく社会教育を受けてこなかった人間は、出来ない壁に当たらせないと「謙虚さ」は生まれてこない気がします!沢山の方々を面接致しましたが、傾向として職業の選択が余りにも希薄と申しましょうか?安易で次から次へと変え、信念がありません。「何故最初、この職業に就いたのですか?」と、お聞きすれば、車が好きだったから」と答え、「では何故、次に不動産関係に就いたのですか?」  「お金が沢山稼げると思ったから」・・・自身の考えが風見鶏の様に次々に変化して行きます。 そして、大丈夫かなあ?と本当に心配しますのは、沢山職業を転々として来たことを善いことと捉えていまして、アピールしておられるのです。「私は色んな経験をして来ました?」と・・・ その職業を、1年や2年勤めたからと言って、それが経験した事には成りません。これも豊かな時代背景があるのでしょうか?

「~ですし、~なんで!」

私は、古い人間なのでしょう?言葉遣いが非常に気になります。何時の時代にも若者言葉とか、流行語はあるものですが、受け入れたくないと脳が拒否反応してしまうのです。今回の面接でもそうですが、「~ですし!~なんで!」とよく聞きました。これが面接に相応しい言葉でしょうか?「~なんで」の後がない!!!  また、聞かれたことに対しても、「こんなこと私が言うことでもないのですが?」とか、「違っているのかも知れないのですが?」「言える立場じゃあないのですが?」などなど、初めから自身の考えにシャッターを半分閉めたモノ言いが気になって仕方ありませんでした。多分、違う意味に於いて頭が良いのでしょう?どの様な相手の意見にも対応出来る様に逃げ道をちゃんと用意しています!学生時代に上辺だけでも仲良くすることが全てで、喧嘩することが全部悪いとの教育を受けて育った人間の処世術なのでしょうか?更に、自身の事を「私は、~することが嫌な人なんで~」と、第三者的に自分自身を「~する人」と表現します。本当についていけない私です★どちらにしましても、私にとっては、高飛車に聞こえてしまいます。ガマン、ガマン*辛抱辛抱! 面接している窓の向こう側を見ながら、私は、正しい言葉で気持ちを伝えて行きたいと、より一層強く思いました。「とんでもございません」ではなく、「とんでもないことです」と、頑なに守りたく存じます。そう言えば、この前、子供達との会話で「デコッタの?」と聞かれてビックリしました。頭の中に「???」と「おでこが?なんだ~?どうした!」ついて行けね~!正しくは「ついて行けません」*笑「付き合い切れません」の方が正しいかも知れませんね?笑 「お付き合いしかねます。」でした! しかし、時々、今風の言葉を聞き慣れ過ぎて、私自身が遣ってしまった時は、最低最悪で不甲斐ない気持ちになることもありますから、本当に気をつけたいと思います!笑



字は、心を表すのでしょうか?面接の時の漢字テストや、普段の報告書などに目を通していますと考えさせられてしまいます。特に、二十代の若者達の字は暗号に近いモノがあります。失礼ですが、学校を出られた方とは到底思えません。私が小学生の頃は字が余りにも下手ですと、「ミミズが這った様な字」とよく注意をされました。 また、テストでも読めない字で回答を書けば、当然、マルや点数は貰えないのは当たり前です。字は人に見せるものですが、これでは、考えや気持ちは伝わりません。相手の気持ちになれないのか? 分からないのか?人に見られるという意識が薄いのかも知れませんね?  家や学校で注意を受けてこなかったのでしょう??? 思い出しましたが、学校の通知表のコメントに「生徒の悪い所」を指摘することは書いてはダメだ!という通達がされているようです。良いことしか書いてはいけない!どうして?一生残ってしまうものだからだそうです。変な時代です☠ そういう環境で育ててしまいますと、自信過剰、自分本位の勘違いした人間を作ってしまうと思います。何でも言わないと気が済まない人達も同じだと感じますが・・・ 自分では気が付かない、自身の欠点や悪い事を教えて貰うことの何処がいけないのでしょうか?指摘してくれるそういう親や先生は、子供と真剣に向き合っている証拠だと思います。言い難いことをおっしゃって頂ける存在は本当に貴重です。大切な人です*

マネは悪ではない

「ヤスユキコーチの矛盾」は沢山あります!笑 が、その中に、「マネと真似」の話があります。確かに、「マネはマネ」に過ぎないのですけれども、しかし、何事も真似から始まるのも事実です。殆どがそうだと思います。では、何故ヤスユキはマネを否定するのでしょう?ミステリーです!笑 な~ぜ~???真剣に戻りますが、それは身についているかどうか?継続的に行い信念に基付いて、「本当にそう成りたい!」「そう出来る様に成りたい!」と考え実行しているのか?が重要だと思っているからです。もう、お亡くなりになられている高僧が教えてくれました。「真似をすることと言うモノは、一度しか、やらなければタダのマネだよ★ しかし、一生やり続ければ、本物だ☆」と・・・「学び」とは「真似」から生まれた言葉だと言われることもありますが、学んだモノを、学んでからどうするのか?活かすのか?サルマネで終わるのか?が問われます。いくら「善い行い」をマネても、褒められる事を目的とすれば、そこに「学び」はありません。その意味を深く自身が本当に理解し、継続的に行えばきっと学んだことになるのでしょう!親子関係の中にも、教えようとしないことが、逆に子供の為に成ることが沢山あります。指導法と同じです。「子供は親の背中を見て育つ」何てよく言われていました。きっと親や指導者も、教えようとすれば、何処かで作為的なモノが働き過ぎたり、子供が欲してないにも拘わらず、意味が分らないまま無理やり理解させ様とするから、表面的なモノしか伝えられないのではないでしょうか? 人権意識に過剰反応する今の世の中は、褒め過ぎたり、叱り過ぎたり、手を出し過ぎたりすることが、限度無く隅々にまで行き渡ってしまい、融通が利くことや曖昧で良いモノまで破壊してしまいます。

自分らしさを求める親や社会

前述の「変な自信」の本質に繋がる話ですが、若者を責めている訳ではありません。育て方にこそ問題の本質があると思います。小さな時から、自分らしさや、何が個性なのかも大人自身が深く理解しないまま「自分探し」を求めています。毎日の様に習い事をしている子供達を沢山見掛けますが、次から次へと渡り歩いています。沢山の経験をさせて将来に役立てる意味なのでしょうか?時代の流れとは言え、とても憂いてしまいます。何でも好きな事をやらせてくれると、思い込ませて良いことなど一つもないと思います。第一に「感謝の気持ち」を育むことすら出来ない*何かして貰って、「ありがとう」と言う気持ちを芽生えさせないのは、教育の放棄ではないでしょうか!何でも当たり前にしてしまえば、「面倒クサイ」「ウザイ」なんて、自分が気に入らなければ愚を溢す大人になると思います。協調性と個性とのバランス感覚を養わなければいけません。人と違う「自分らしさ」を称賛し過ぎれば周りのことも考えず自分は自分だ!との傲慢な人間になり、皆に合わせさせることを強制し過ぎれば、「NO」と言えない!難しいことかも知れませんが、難しいからこそ、そこに「意味」があるのです。誰にでも簡単に出来ることなら、薄っぺらなモノだと思います。

別れても好きな人!笑

よく私が行く会場で、クラウドを親の意向で辞めた生徒に会います。その子は、自分の親が私にどんなことを言っていたのか、傍で聞いて分かっていますから、遠慮気味に公園の片隅でボールを持ってこちらを窺っています。他に良いクラブはないか?笑 と紹介を依頼したり、ご子息の将来性を聞いたり、不平不満をぶつけた後、もっと厳しく強いチームに行きたいとクラウドを辞めて行きました。しかし、あるクラブに行き、また辞め、また次のチームに移っているそうです。その子供が可哀想でなりません*入部当初、他クラブに体験に行っても、全く馴染めず泣いて何も出来なかった子供が、何故かクラウドでは楽しく出来て親も非常に喜んでいました*きっと喉元過ぎればなのでしょう?  正直に申し上げれば親との云々は色々ありますが、子供に罪はありませんので、純粋な気持ちでよく声を掛けています。「頑張ってる?元気?一緒にやろう!」などなど・・・本心や気持ちは、聞かなくても伝わりますので敢えて触れません。何時か親の固い殻から、自分で抜け出し、自由にサッカーを楽しんで欲しいと思います。その子は、素直で意地のあるカッコ良い人間ですから、きっと自分で道を切り開いて行くことでしょう!仲間たちと楽しく一生懸命にやっていることを、ある日、突然取り上げられて、どんな思いを子供がするのか?一生心に残るでしょう*でも私は、そんな辛い経験をしても、投げやりにならないで、逆境に立ち向かうエネルギーに変えて欲しいとそう思っています。人間として、ヤスユキと00くんとが、今、こうして信頼関係に基づき、付き合えることがとても幸せに感じます*ありがとう!


 

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