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井上陽水さんの歌で、「人生が二度あれば」と言うモノがあります。「父は、今年二月で~顔のシワは増えてゆくばかり~」この曲の最後、何度も何度も「人生が二度あれば~人生が二度あれば~*」と陽水さんが絶叫しながら唄う場面は、人間の儚さを嘆いている様に私は感じます*

人生とは、何でしょう?自分自身で道を選んで歩いて行くことでしょうか?しかし、自分ではそうしようとしなくてもさせられている?いや、してしまうこともあるのでしょう!もしかしたら、それが「運命」なのかも知れません。

食べる

先ず、人間は生きて行く為に何か食物を食べなければ死んでしまいます。その食べ物について少し話させて下さい。スーパーに行きますと様々な食材が沢山並んでいますが、異様な位、皆綺麗に加工されていて、元の姿などは想像も出来なくなっています。生きモノを殺して食べていると言う実感は余り感じません。食材の一つでしかない。野菜などでも見た目がとても重要視されています。 同じ長さや曲がり具わいなど?切ってしまえば同じなのに???笑

畜産

昔、空手の先生の中に畜産業を営む先生がおられました。その先生にお聞きした話ですが、ヒヨコのオスは殆ど全部ポリバケツに入れられ殺されるのだそうです。詳細は、残酷過ぎますので止めておきます* 本当は現実を包み隠さず子供達に伝えた方が良いと思いますが、ブログですから自制致します。そのお話は、鳴き声が今でも聞こえて来る様な気がして生涯忘れることが出来ないでしょう*牛や豚も同様の事が行われているとしたら悲しいことです*「ブタのいた教室」のDVDを観て頂いたらどうですか?とのアドバイスを頂戴しましたので、ご興味のある方はご覧になって見て下さい。私は、テレビのドキュメンタリーで観ました*涙

キャラバン隊

昔、中近東の砂漠を数ケ月掛けて、日本のテレビ局のキャラバン隊が現地の人達と一緒に旅をするドキュメンタリー番組がありました。砂漠の過酷さを、身をもって体験するのですが、その夕食の準備をする時に、大激論になり掴み合いのケンカになってしまったのです?今だったら、その番組に苦情が沢山寄せられて放送中止になっていたことでしょう?笑 「公共電波で大人の喧嘩を見せるのは、子供に悪影響だ!」と・・・ 想像出来てしまいます。上辺だけの平和を求め、本音の部分を隠している為に殺人事件が多発し、陰湿な仕返しが横行しているのだと私は思っています。そんなことから、「ケンカくらいすれば良い」と、子供達に伝えています。元に戻しますが、喧嘩の原因は、現地の人と同じ様に「羊」を殺して食べるのか?食べないのか?の選択でした。賛成派は、「現地のやり方を実体験しないと、このキャラバンの意味がない」と言い、反対派は「食料があるのだから、敢えて動物を殺す必要はない」との意見だったと思います。 私は、瞬間的に殺さない方が良いと思ったのでしょう? しかし、高学年ながらよくよく考えますと、答えが見つからず「どっちが正しいのか?」悩み続けた記憶が蘇ります。  何故なら、本気でケンカしているどちらの人も、とても悪い人間には見えなかったからです。その場面だけを観ますと、良い悪いは簡単に判断出来ることでも、様々な場面場面でその人間性が垣間見えてしまいますから、一様な事柄だけでその人間を捉えたくなかったのかも知れません?どちらも善い人ならば、深い考えの下に主張されている筈です。視点や思考の部分で違いがあるだけだと思います。きっとその辺の矛盾が人間らしいところなのでしょう? 同じ行いをしても、その人物によって見え方が全く変わってしまうものですよね!知っている人、知らない人、そんなことだけでも変わります。大人になって改めて考えますと、人間の愚かさに気づきます。 現地の人達は、そういう環境の中で必死に生きておられるからこそ当たり前なだけですね*平和で豊かな金持ちが、面白可笑しく体験しようなどと出掛けて行く「驕り」ではないでしょうか?また都市化が進んだ国では、汚いモノとか、残酷なモノは遠くに遠くに避けられ見えなくしてしまいます。そして、自然の恵みに対する感謝の気持ちも忘れ去られてしまうのでしょう*

ヒヨコ

私が小さい頃、祭りで買って来たヒヨコが居ました。大抵、祭りで売られているヒヨコは、病気になっていたりして、直ぐに死んでしまう!とよく言われていましたが、運良くそのヒヨコは病気にもならず生きていました。大切に大切に育て、朝の散歩を一緒にしたり、餌にする草を間違え採って来て、父に怒られながら育てました。そして、見る見る内に大きくなり、トサカが生えて立派になりました。 私の後を何時も付いて来て、本当に可愛かったです。 そんなある日、近所の友達たちが私の家の周りで騒いでいたので、「どうしたの?」と聞くと、必死の形相で近寄って来て、「やすゆきくんのニワトリがネコに銜えられて何処かに行っちゃった*」と言うのです!私は、懸命に探しまわりましたが、もう何処にもいませんでした。小屋の近くに血痕だけが残っていました*あの時は、一瞬野良ネコを憎んだことでしょう?余りハッキリ覚えていませんが、でも、野良ネコだって食べないと死んでしまう!と思えたのかも知れません?もし、そう思えたとしたら、感情の幅が少しづつ広がり初めていたのでしょうか?もうどうしようもないことに対して、別れを悲しむことよりも、平然と乗り越え様とする、昭和の逞しい子供の一人だったのでしょう!どんなショックなことや、辛いこと、悲しいことなどに対しても、歯を食い縛り、涙を見せない様にする年上の先輩達が私の周りには沢山いました。 悲惨なことや残酷なことがあり、今だったらカウンセリングを受けさせ様とすることでも耐えて自身で乗り越えて行きました。 カウンセリングなんて、昭和の人間には全く必要ないと思います!笑  大人も子供も皆誰しも、それを乗り越え踏み越えて行ったのだと思います! その時に、大人や世間の一見優しそうな施しを受ければ、何時も何かあった時には、誰かが何とかしてくれる?などの情けない心を植え付けてしまうと感じています。   少しテレビの話に逸れますが、昔、その時代には、「野生の王国」と言う番組が毎週放送されていました。ある時は、「ライオンの親子」が取り上げられ、何週間後には、「シマウマ」が取り上げられたりしますと、自分の中で整理のつかない矛盾が生じ、自分の愚かさに気付かされたのでした!それは、どうしても、その対象の側からしかモノが見えなくなってしまうからです?ライオンの子供が空腹にしていれば、早くシマウマが捕獲出来れば良いのに?と考え、シマウマの子供が生まれれば、早く立たないとライオンに襲われてしまう?と、一方向からしか考えられない!

正しいとは何?

以前もブログで、この話をさせて頂いたと思いますが、何故、この前述の話に私自身拘りがあるのか?申し上げますと、「自己矛盾」や自身が何時も正しいと思っていた「正当性」に疑問を持った一番最初の出来事だったからだと思います。友人関係や学校、家庭など様々な場面で、「どうして、もっと楽しく出来ないのだろう?」「何故、もっと仲良く出来ないのだろう?」「どうして、相手が嫌がることを言ったりするのだろう?」「何で、意地悪するのだろう?」「人間は、何故悪い事があると何かのせいにしたり、これだけで済んだと自分勝手に思うのだろう?」と、自身の行いを含めノイローゼになるくらい悩んだ時期がありました。 小学4年生の頃だったと思いますが、今から振り返りますと、自分自身が信じられなくなり、身の置き所がなかったのではないか?と考えます。「オレって本当に正しいことしているのか?正しいとは何?自由とは何?」と・・・しかし、その闇からいつも救ってくれたのは動物たちでした。 犬、猫、ヒヨコ・・・別世界に案内してくれるのです*そう!考え過ぎると何も出来なくなってしまうんだ!その時その時の自分を信じて動けば良いと・・・そう言えば、テスト試験の時に先生も言っていましたね?最初に考え書いた答えが殆ど正解だと!笑

畜産の学問

畜産の学問は人間至上主義を前提として、学ばれ研究されています。如何に効率よく生産出来て、如何にコストを下げるのか?全く持って人間の身勝手な論理を展開させ勉強するのだそうです。 本当に恐ろしい!鳥の腕?羽の部分を遺伝子の組み換えによって退化させれば、その栄養?養分が肉の方に回り、飛べなくって管理し易く効率が上がる?などを真剣に科学的分析するのです。☠

人間

「人間は、破滅に向かっている!」と、大阪万博の時に、岡本太郎さんは述べられました。人間至上主義や経済発展、科学的進歩などは、人間が豊かに暮らして行くことを前提にして望む為、誰にも止めることは出来ません。

人間が人として存在する意味

日本では、食べ残した物を世界で一番捨てているのではないか?との指摘がございます。沢山の動物をムダに殺しています。しかし、罪悪感すらない?芽生えない所が本当に怖い☠ 余り物は、全部捨てて当たり前、使い回しなどは論外です。実行し行えば廃業にまで追い詰めます。賞味期限や消費期限が徹底され、その為に安心安全の保障された高い物しか買えなくなってしまいます。でも、そうすることがこの国の国民にとって本当に「幸せ」なことでしょうか? 生きる為、食べる為に仕方なく殺すのならまだしも、捨てる為に殺せば因果応報で、何時か人間に返って来ることでしょう*幼い頃、「ご飯粒を残せば目がつぶれる!」「魚をダダくさに食べると魚が悲しむ*」などなど、祖母や母から沢山注意され教えて貰いました。そこにはきっと、お百姓さんの苦労を想像しなさい*「ありがたい」と言う感謝の気持ち芽生えさせたり、殺生をして人間が生きる「業の深さ」を知らしめる意味もあったのでしょう!動物達を人間の欲望を満たす為に殺し、感謝することなく捨てて、「人間が人として生きる意味があるのだろうか?」と本気で考えてしまいます。地球環境のことや、他の動物の事を考えてみれば、人間が居なくなれば一番良いのかも知れませんね*自然の中に行きますと、人間のルールは通用しません。全て自然の摂理に従わなければいけないのです。逆らえば即「死」を意味します。当たり前のことが分からない位、人間は驕っているのです。

運命

運命的な出会いは、男女間の事だけではありません!笑 仕事も同じなのでしょう?随分前に亡くなってしまわれた登山家の植村直己さんは、大学に入ると「山岳部」に軽い気持ちで入部しました。スポーツ部に入る勇気や根性はない!山岳部なら綺麗な景色が観られて、友達も出来そうだったという安易な考えでした。そして、入部して間もなく最初の登山で、嫌と言うほど山と自然の厳しさを知りました* 自力では登れなく、何度も何度も転び疲れ果て、そして、皆に助けられ泣きながら登頂したそうです。先輩に叩かれながら! 普通なら、そこで挫折を味わい自分の能力や才能の無さを痛感し、二度と山登りはしなさそうですが、植村さんは違いました。 その恥ずかしい体験から、重い荷物を入れたリュックを背負い、毎日裏山の階段を上り訓練し始めました。 更に休日を利用し、自分一人で近くの山々を登りに行ったそうです。不思議だと思われませんか?人間は、同じ体験をしても、そのモノにのめり込む人もいれば、諦めて違うモノを探す人もいます。諦めると言う表現は誤解を生む言葉ですが、悪いことではありません。ただ興味が湧かなかっただけです。そこにきっと「運命」というモノがあるのかも知れませんね!最近のニュースでもありましたが、北海道の山で沢山の登山客が亡くなられましたが、きっと山と自然を甘く見ていたのではないのでしょうか?ツアーで行けば安全だ!などと思われていたのなら、大きな大きな間違いです。死を覚悟の上、山に登らなければいけません。安心安全が当たり前の世の中に慣れた現代人が、安易に山登りをしますと、こんな不幸を招きます。 しかし、不幸では無かったの知れませんね?分かりませんが、大好きな山で死ねたのなら、ある意味幸せだったのかも知れません? 病院で苦しみながら死ぬことよりも*死というモノは、全て悪いことではない!と、言う私の思想信条がそう思わせてしまうのでしょう! お気を悪くなさらないで下さい。「♪娘さん、よく聞けよ~山男にゃ惚れるなよ~・・・」と、言う歌がありますが、何時命を落とすかも知れない「山好きな男の気持ち」を明るく語った歌なのでしょうか?ちゃんと装備していても、命は守れない時もあります。自然をナメてはいけません。  私の大先輩に2名の登山家がいますが、何時も嘆いておられます。 登山ブームになり、沢山素人の方が登ってこられるが、装備は軽装!マナーは最低!山小屋の管理人のオヤジさんが、辿り着く登山客が来る度に、「風呂は何処?」と、尋ねられるのでヘソを曲げてしまい「山を下りればあるよ!」と、怒りながら答えていたそうです*  また、山小屋では、就寝時、風呂がない為に頭と頭を向かい合わせ、足が頭の方に向かない様に寝るのが登山マナーですが、注意すると怪訝な顔をするのだそうです。更に、夜、山小屋で寝ていますと、携帯の音やメールの着信音が「ピロピロ!ピロピロ!」鳴り響く為、最近の常連登山家達は、仕方なく山小屋の横にテントを張って寝るとのことでした* 便利な生活に慣れ切った人間が、自然の中で生きて行ける訳がありません。 それ以前に、山や自然に対して中に入らさせて頂くという「謙虚」な気持ちがないのだそうです。  「何故、山に登るのか?本当に分からん!自然は怖い所だと知らないのかなあ?」ガイドだって人間ですから完璧なんてありません!誰かに頼ってばかりではダメです。 また、こうもおっしゃっていました。 里山だとか、自然保護を訴えている人間は、本当の自然や里山の意味を知らないのだろう? 本来の里山の意味は、自然の中で動物達と共存しながら暮らし山に住むことだ! 自然保護を言うのなら駆除もするな!笑    時々暇な時に山へやって来て、言いたい事を言い、自己満足するだけならマスターべーションに過ぎない!アトラクションではない!と、言う過激な発言もお聞きしました。 しかし、本質かも知れません。 虫を獲ることも出来なくなりますね!全て人間様の都合だけの様に感じてしまいます。元に戻しますが、綺麗な景色を観たいだけなら他にも方法が幾らでもあります。  天候が変わり易い過酷な条件の中で知恵を絞り、「人間の生死」に向かい合い、限界に挑戦し登ることが楽しいのだ!と教えてくれました。だから山男に「何故山に登るのですか?」と聞けば、「そこに山があるから*」とだけ答えるのでしょう***聞く側の言葉の裏には、「何の得もなく、凍傷で指を無くしたり、命まで懸けて何故登る?信じられない!考えられない?」との思いがきっとあるのでしょう!山に登ったことのない人間には、一生理解出来ませんね*命懸けでやるから、その時の達成感は何モノにも代え難くなる!本当に生きていると言う実感と喜びです。 身近なスポーツの例えで申し上げれば、過酷な条件の中、喉の渇きに飢えながら耐え忍び、その後に飲む水の美味しさは格別のモノがあります!経験しないと解りません。まして、登山というモノは、スポーツと比較になりません。生命の危険を伴いながら登頂した時の喜びは、きっと、もう死んでも良い位の気持ちになることでしょう*書き込みをしながら、私も一人で登山をして見たくなって来ました。 大先輩に白馬の山へ登山に行こう?と、お誘いを受けながら、団体行動の苦手な私は何時もお断りしていましたが、一人なら行って見たいです*叱られますね、先輩達に★ お前は命知らずと言うよりも、無鉄砲なバカだと・・・若い時から何度もそう言われて来ました☠ 笑 死ななきゃ治りませんね?アハハ  可笑しな話をしてしまいますが、山で死に、誰にも発見されなければ周りの人達に与える悲しみも少なくなりませんか!笑 亡骸を見せて深く悲しませたくないと思うのは変でしょうか?そう言えば、織田信長も本能寺の変で、髪の毛一本も残さなかったと言われていましたね!刹那的なので止めておきます*笑 植村さんの話で付け加えてさせて下さい。植村さんは、山の厳しさと先輩の厳しさで山岳部を直ぐに辞めようとしました。しかし、その相談した方から「途中で投げ出す奴は、人間のクズだ!」と言われたお陰で、同期の仲間がドンドン脱落していく中でも歯を食い縛り、必死に頑張り抜いたそうです。そして、登山の魅力を知ってしまったのです。人生って分からないものですね?そう言えば植村さんが最初に登った山は白馬でした!

影響を及ぼす不思議

私達指導者でも運命的なことがあると思います。厳しくして嫌になり辞めてしまう子供もいれば、奮起して一流選手になることもあるでしょう!厳しくないからと辞めさせられる子供もいます? これは、自身の判断ではありませんから、本当に運命なのかは分かりませんが、要するに、自分の捉え方や考え方次第で、道は開けて行くのではないでしょうか?周りのせいにしてばかりいては、人生を自分の足で歩むことは出来ないのでしょう?例えば「失恋」をしたことのない人間は、自分自身を振り返ることが出来ない!と言うお話を、何処かで聞いたことがありますが、自分という人間の存在を改めて見直し、掘って掘って掘り起こして見る機会なのが「失恋」なのかも知れませんね*そして、謙虚というモノを知り、また身に付けられるのでしょう!人は人生の中で色々な人間に出会い、様々な影響を受けて自身を成長させて行くと思いますが、現在は、トラウマとか?DVとか、低血圧とか、何かにつけ出来ない理由を探し、それを言い訳にしている様に私は感じています。家の物を片付けられないのは、脳に異常があるからだ!朝起きれないのは低血圧のせい?笑 それを助長?補足?するかの様に科学者や教授が難解な専門用語を用い解説説明しています。科学者や教授様を全て批判するつもりは毛頭ございませんので、誤解のない様にして下さい。何年か前のことですが、ある日本海の北陸の浜辺が川の流れによって、ドンドン砂が運ばれ海が遠くなる為に非常に困っていたそうです。そこで、ある有名な大学の教授が、川と海辺を調査し、科学的検知から計算に基づき堤防を海に築きました。しかし、砂の流れは留まるどころか、以前より増して砂が運ばれて来たのだそうです!そこで、その教授は、更にもうひとつ堤防を造ろうとしましたが、住民の方たちが「もう、何もしてくれるな*」と言って止めさせたのだそうです!笑 その海の家のお爺さんにお聞きした話ですから、間違いないと思います。  データに基づいたとか?統計?証明されている?科学的根拠があるや、あの有名人が使用している?権力者が言っていた!スポーツ科学的トレーニングに対して、いつも私は疑問を持っていたものですから、分野の違いはあれど、この話は本当に頷けました。スポーツ科学的と言えば、こんな話もお聞きしたことがあります。弱くなった日本の柔道を科学的に分析した学会での発表です。抜粋してご紹介させて頂きます。 「科学的測定の結果、背の高い者は体重が重い事が分かった。そして、体重が重い者は体内脂肪が多いことも判明した。 日本人の体内脂肪は、その比率が外国人より多かった! 従って、この体内脂肪の比率を減らせば、日本人はオリンピックでもっと勝てるだろう???」皆さん、これが科学的分析結果です!笑 これを聞いていた良識のある科学者の方は、両肩がふるえて笑い出しそうになるのを我慢するのが大変だったそうです。 科学的な世界と言うものは、一種の信仰に近いモノがあるようです。  真実の証明をすることよりも、科学者の権威を持つ学説の方が優先されてしまうのです。人間の爪が何故伸び続けるのか?何故髪は伸び続けるのか?という身近なことすら解明されていません。私の本音は、また何か解明して人間が如何に豊かに繁栄出来るのか?と考えるのでしょうから、私はどうでも良い事だと思っています。信仰に近いモノは、遠く見えない事ほど分かった様な振る舞いをします。きっと安心するのですね! 森羅万象!宇宙や自然は不思議で、人間が幾ら考えても到底及びません。驕り分かったつもりでいるだけですね。研究結果だけで、全てがそうだとは言い切れません。 例えば、DNA結果や臨床実験、血液反応、など完璧に思われていますが、そうではないということは実証されています。今はそう思われる?と言うことです。信じ込むとは本当に怖いです*知らないことでも信用してしまいます。愚かな生き者です*人間は***

人生とは?

 「人生が二度あれば!」と言う歌は、子供達の為だけに年老いて行くご両親の姿を見て作られた歌です。二度とないと思えば、一度目を大切に生きられるのでしょうか?二度あれば、自分のやりたいことを満喫し、納得して死んでいけるのでしょうか?一度も二度も同じだという考え方もあります。二度あると分かっていれば、一度目だから、いい加減に生きてしまうこともあるでしょう!一度きりだと思うから美しいのかも知れません?分かりませんが、一度目を一生懸命生き、二度あると思って死んで行けば、一度目の人生はとても意味のあるモノになるのだろう?と私は感じています。訳の分からない終わり方ですみません*

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愛知県で活動しているクラウドサッカークラブの運営をしています。
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