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詩
世の中には、色々な「字」がありますが、好きな字と嫌いな字って御座いませんか?私は、子供の時から「藤」と言う字と愛知県の「愛」の字がどうしても上手く書けなくて嫌いでした。未だに苦手ですが!笑 加藤さん、佐藤さん・・・すみません。しかし、この「詩」と言う字は、何故か好きなのです。私は、習字を習った経験が一度もありませんが、よく教室や校長室の前に張り出して貰いました。運が良かったのでしょう?笑 覚えていますのは、「水」と言う字を書いた時に先生から、「何処かで習っているのか?」と、聞いて頂きとても嬉しかったことを思い出します。 私の場合、鉛筆よりも書道の筆の方が、絵を描くことと似ていて書き易かっただけなのでしょう? 少し、自慢話みたいで恐縮ですがお許し下さい* でも、その頃から全く成長せず、上手くなっていない所が私らしい*笑 数年前、母のペン習字の先生に「藤」の字と「愛」の字はどうしたら上手く書けるのでしょうか?と、母を通してお聞きし練習したことがありました。 一つ一つの字のバランスや、置く位置、力の入れ方、抜き方は武術や、スポーツに通じるモノがあるのだなあ?と感心しながら練習しました。字の意味を理解しながら* 先生曰く、「同じ字を100回書きなさい。 学問に王道なし!また王道に近道はありません*」と、お教え頂き心から感謝した次第です。人生の教訓と同じですね! 直ぐ結果を求める様な近道をして急ぎ山を登りますと、必ず結果は悪いモノとして跳ね返って来ます。 一歩一歩、着実に歩を進めれば、一気に滑り落ちることもないのでしょう!少しズレますが、宮本武蔵先生の作品で立派な水墨画が残っていますね!私の様な素人が見ても非常に上手いと感じます。書道や字は、やはり武術に通じる所があるのでしょう?
辞世の句
辞世の句と言えば豊臣秀吉の「露と落ち 露と消えにし 我が身かな、浪速のことは 夢のまた夢」を、私は思い浮かべます。本当に秀吉が詠んだのだろうなあ?自分自身で作ったと感じます。歴史上の人物が辞世の句を必ずと言ってよいほど残してはいますが、本当にそんな余裕があったのだろうか?と、どうしても懐疑的になってしまいます。これは本物だと思えますのは、秀吉、家康、政宗、あとは、切腹を命ぜられ時間的に余裕を持てた武将達くらいではないのでしょうか?でも感心致しますのは、皆さん大変「達筆」ですよね! 誰かに書いて貰っていたのかも知れませんが!笑 口述筆記? でも如何に「字」や「詩」と言うモノを大切にしていたのかが窺われます。今と違って紙が、とても貴重だったということもあったのでしょう! 少し、詩の話からズレますが、本能寺の変で、織田信長が明智光秀の謀反により、命を落としましたが、私は、豊臣秀吉が明智光秀と共謀したのではないか?と、何時も感じます。裏切る者と言うのは、目立ち過ぎて居ては遣り難く、また中々出来ないものです。そして、思いも掛けない人物が裏で画策します。一番、織田信長から可愛がられ出世し、恩義を感じている筈の秀吉が裏切るなんて誰が思うでしょうか? しかし、人一倍向上心と申しましょうか?上昇志向の強い方だったことは周知の事実です。出自を朝廷に変えさせて藤原の家系と偽ったり、位の高い女性を好んだり!笑 とにかくそういうモノに対してはとても執着していました。そして、農民の出身故、厳しい武士の戒律に縛られませんし、衒いを捨てることなど朝飯前です。ある意味自由で柔軟に対応出来ます。更に誰よりも策略的な事に長け、貧乏のどん底から這い上がった苦労人特有の「人の気持ちが読める?分かる」豊臣秀吉は、信長から叱責を受けた明智光秀を上手く懐柔利用した!それも公家様を通して?おそらく知恵者の秀吉ですから、ワンクッションを置くことは当たり前の様に分かっていたと思います。また、武士名家出身で家柄の良い明智光秀を操るには、朝廷からモノを言わせた方が聞く耳を持つと思ったのではないか?本来、武士は主君に忠義を尽くすのは、最も重要で守るべき一番大切なことと幼い内から叩き込まれます。 しかし、朝廷を軽視する信長を討ってくれ!自分が神と成ろうとする不届き者を!と、朝廷から頼まれたらどうでしょうか?正義感が強く、冷静沈着な光秀の性格でも、階級社会ですから直ぐ上の主君よりも、もっと上の御上に対して忠誠を尽くすべきだと考えても何も不思議なことは無いと思います。 秀吉の話に戻しますが、自分の地位を得て、天下を取る為に自身の母親を徳川家康に人質として差し出すことが出来るのですから、それ位は簡単に出来ると思います。そうは思われませんか?共謀とまでではないにしろ仕向けた?何か臭うのです。その後、豊臣秀吉が天下を取っていることが動かぬ証拠だと思います。どんな組織でもトップの寝首を掻き直接的に手を下してしまえば、その人物はトップには成れません。マフィアの間でもそういうジンクスが言い伝えられているそうです。「権力争い」と言うモノは、どの国でも同じ構造と申しましょうか?結果を齎します。何処かで恨みを買いますから*アメリカでもその様な事の成功例があります。 例えばケネディ大統領暗殺の後は、ジョンソンですが間接的にマフィアを利用遂行し自身がトップに立った様です。暗殺直後の飛行機の中、ケネディ大統領の棺の前で、ジョンソンが新大統領の宣誓の後、ウインクする写真を見たことがありますから、事実だと思っています。利害の一致する者を懐柔したのです。その当時、ケネディはマフィア撲滅を目指していましたから、マフィアにとっても死活問題でした。それと同じ様に秀吉も、朝廷が存続に危惧している状況と、人前で理不尽にも叱責を受け、信長に恨みを持った光秀をそそのかし、秀吉自身の姿を見えない様にしながら、上手く操ったのではないのでしょうか? もし、秀吉が直接、信長を殺していれば天下を取れなかったのは明白です。きっと仇を討たれています。大義が立たないのですから!この恩知らずと*誰を暗殺し誰が利を得て得をするのかを考えれば全体像が見えて来ませんか?そういった意味からも、秀吉が策を弄したのではないでしょうか? 飽くまでも私の推理ですが!笑 織田信長には、沢山の子供達がいましたから、世襲が続けば一生自分の天下はない*また、藤原の家系しか認められない世の中でしたから、自分がどれだけ信長の下で一生懸命に働こうと、限界が見えていたと思います。 信長が幾ら能力主義者であっても、秀吉が朝廷まで動かすことは出来ません。それには、どうしても天下を取る必要があった? 今の時代からは想像も出来ませんが、出自の問題は、きっと豊臣秀吉にとって、とても大きな問題だったのではないかと、時代背景を考えればそう感じられます。朝廷を意のままに動かし、正倉院を開けさせ「蘭奢待」を見たかったのかも知れません!笑 権力に取り憑かれた人間の欲望は果てしないモノですよね*その後、豊臣家は、徳川家康によって滅ぼされますが、家康はきっと本能寺の裏側を知っていたのではないか?それも匂います!ですから中々秀吉を認めたくなかったのかも知れません?秀吉が死んでからでも、家康自身が実質天下人になりながら、因縁を付け滅ぼす理由がそこにはあったのでしょう!もしかしたら、秀吉の裏に朝廷がいたのかも知れません?永遠に謎ですね?思惑一致と言うことでしょうか?関白にしてあげるとの密約でもあったのでしょうか?信長は、どんなモノに対しても畏れを知りませんから、周りからすればとても恐ろしくもあり、また、それほど常識を超えた強い人物だったのでしょう!そういうことを想像をしていますと、明智光秀が可哀想に思えて仕方ありません。真面目で実直な方が救われないのは、何時の時代でも変わらない気がします*私の好きな歴史の話ですから、つい熱が入ってしまいました。ご興味のない方には退屈な話だったですね*反省します。
井上陽水さんの詩
陽水さんの詩は、置き換えた表現方法が魅力的です。例えば「氷の世界」という歌の歌詞は、「♬ 窓の外ではリンゴ売り~声を嗄らしてリンゴ売り~きっと誰かがふざけて~リンゴ売りのマネをしているだけなんだろう~」この歌詞の意味は普通解らないですよね?笑 日本が便利で豊かになるにつれて、過剰な説明や過剰な注意書き、または、一見親切な施しが溢れ出した日本社会に対して、自身で物事を考えない!面倒なことはしなくなってしまうと警笛を鳴らしたかったのです。人間が自ら破壊されて行くのでしょう!例えば、駅に着けば、何番線は何々行き~、何番線は何処何処で乗り換えて~何処何処は何番線ホーム・・・そんなことを、リンゴ売りに例えました*ユニークですね陽水さんは!遊び心があります。面白いですね!
小椋 桂さんの詩
この方の詩は、泣きましたね~*笑 中学生の頃、独りで聴いていましたら本当に涙が出てきました。でも、小椋さんの顔を初めて拝見した時の衝撃は物凄かったです!余りにもギャップが大き過ぎて、ダイナマイトショックと申しましょうか?カメハメハ~ん?でした☠ 笑 本当に小椋さん、すみません。 「♬ 時は~私に~めまいだけを残してゆく~だから~ワイングラスの角氷~眠りに就こうとする愛に~ささやかないで~♬」 本当に綺麗な詩です。「めまい」と言う歌です。どうして、この方にこんな詩が書けるのでしょう*笑 またまたすみません。きっと誰よりも心が綺麗なんですね* 「シクラメンのかほり」と言う歌もこの方の作品ですが、国語学者?言語学者曰く、「かほり」なんて言う言葉は存在しない!と、注意を受けたそうです。でも造語ですから最初から小椋さんは解っていました。「かをり」をわざと「かほり」にしたのです。何故、「かほり」になさったのか?と、考えさせてくれるだけで、小椋さんの素晴らしさが伝わって来ませんか* 匂いのないシクラメンにかほりがあるかの如く、比喩的に想いを偲ばせ切ない愛を漂わせたのでしょう*日本的な好さを感じさせて頂けます。
来生えつこさんの詩
来生えつこさんは、私が一番好きな作詞家です。 本当に健気で、優しく切ない女心をピュアに表現されています。 「♬ どうぞ~このまま~今の儘で~過去も未来もなく~時を流れないで~幸せは少なめで構わないから~♬」全文を載せたいくらいですが、何度お聴きしましても美しい詩です。また曲も素晴らしい* そう言えばコンサートに一人で出掛けたこともありましたが、生演奏は背中がぞくぞくするくらい感動しました。偶々隣の席になった優しそうなお母さんと娘さんが歌を聴き流していた涙は今も忘れることが出来ません*「♬ 悲しみも少なめに~過ぎると良いのに*」デイブレイクと言う詩です。友人をコンサートに誘っても誰一人付き合って貰えませんでした★「永ちゃんとかさ~甲斐バンドとか、浜省、尾崎のなら行くけど、来生たかおはちょっと?」と・・・私が変わっていたのでしょう*
太宰治さんの詩
太宰さんのことを、余り善く言われない方もおられますが、でも私は大好きです。こんな繊細で自己矛盾に苦悩し続け、また人間臭い?泥臭い方は、芥川さんや師匠の夏目漱石さんとは、また違った魅力を感じます。 私は、野球の王貞治さんを一番尊敬していますが、太宰さんは他の作家にはない、善悪の部分で身近に感じられ親近感を覚えるのです。きっと善人には成れない不遜な私がいるからでしょう!笑 そして、もっと言わせて頂ければ、完璧なモノよりも不完全なモノを好しとする、私独特の考え方から来る価値観なのかも知れませんね!変な申し上げ方ですが、世間から批判を沢山受けていたことが、逆に好きにならずには要られない要因の一つだったと思います。天の邪鬼的に人とは違ったモノの見方をして、本質を見抜きたいと言うこともあると思います! 世間の批判の理由は、奥さんとは違う女性に子供を産ませてしまったり、最期は愛人と入水心中自殺をしましたから、ご批判を受けてしまうのは仕方のないことと思いますが、それでも私は全部好きなのです。 本当に好きになることとは、嫌な所や受け入れられない様なことも含め、全て好きなることが「本当に好きだ!」という意味ではないでしょうか?少なくとも私はそう信じています。また、手の平を直ぐに返せるのは、本当に好きではなかったのか?又は、好きと言う自身の価値観や、その想いが薄っぺらいモノだった証拠なのかも知れません? どちらにしましても、自身の利害から切り離して、「本当に好きだ」と言いたいものです。 従いまして、太宰さんが幾ら身勝手な人間と世間から誹りを受けていましても、最後まで味方になってあげたいと思います。性格上、好きなモノは代えられませんしね*笑 まして私の様な凡人以下の人間は、当然、清廉潔白には成れませんから、生涯、王さんの足元にさえ近づくことは出来ないでしょう*辛うじて善くなろうと努力することは出来てもです。少し横道に反れます。自身がちゃんと出来ていないにも拘わらず、敢えて申し上げてしまいますが、日本の人々というよりも、一歩前に出て意見したがる方々は、どうも表面的なモノやイメージを勝手に作ってしまう様です。また、そういう人に限って文句を言いながら、イメージ戦略には引っ掛かり易いのかも知れません?そして更に、その評価を一変させることも好きなのかなあ?私の目には楽しんでいる様にさえ映ります。芸能人の方だって人間ですから、それは色々あるでしょう?いつも人目を気にしながら生活しているが故に、時にはハメを外して裸になって見たくなるのかも知れません?笑 判官びいき的なモノは、日本人特有の性質なのかも知れませんが、裸になるくらい温かい目で諌めませんか*有名人だと言うことで、高いモラルを求め過ぎるのは酷な気がします。芸能関係者が余り好きではないのに、何故、私は弁護しているのでしょう?笑 アハハ 私が芸能人の方々を余り好まない訳は、若い内からチヤホヤされて天狗になってしまう傾向が往々にしてあるからです。 そういう驕った人間を受け入れられない*「別に~!」何て言う女優さんも居ましたよね ☠ 薬物は悪いことに変わりありませんが、最近の清楚な元アイドルの事件でも、偶像的なモノが崩れると一斉に非難し、その人と関わっていた関係各所まで全てが標的になり、これでもかとやっつけます!相撲力士の大麻問題や今回の元アイドルの事件でも、親方やプロダクションの社長も攻撃対象にされて可哀想です* 成人した大人を、管理することなど出来るのでしょうか? 管理すれば、それこそ自由の侵害?人権侵害に当たってしまいます。一人の社会人として生きている以上、本人の責任で処理するべきですし、追及も本人以外に持って来るのは、卑怯なやり方?品がない遣り方ではないのでしょうか?「知らなかったのか?」と言われますが、当たり前と申しましょうか、当然ですよね!お聞きする側の人格が問われて然るべきです。 麻生さんではありませんが、私は、本当に「さもしい」と感じています。昔から、「坊主憎ければ、袈裟まで憎い」とも言われますが、食うに困らない日本社会では、こんな事件を毎日毎日報道して人々の関心を煽り稼ぐのでしょう?幸せって一体何でしょう?太宰治さんの詩で、こんなモノが残されています。「幸福感とは、悲哀の川の底に沈んでいる砂金の様なモノではないか*」と・・・ 小川のせせらぎの音が何よりも好きな私は、この詩をお聞きして音のない水中空間に導かれました。とても好きな詩です* 人間は、時の流れの中で生きています。留まっている様に見えても着実に時は過ぎてゆきます。様々な状況の中で生きていれば、自分を守れなく自身とは違う人間を演じてしまったり、微妙な心の変化も自覚がないまま移り変わってゆくこともあるでしょう* 本来、自分自身が目指している境地とは全く違う方向に向かう事だってあると思います。悲しいことですが、その自分自身との葛藤に苦しみ、また存在する意味を見失って自ら死を選んでしまったのが太宰さんではないのでしょうか? 太宰さんの心中は測り知れませんが、私はそんな風に自身を省みながら想像するのです。 自由や平等って本当に難しいですね!自由と言うモノは喜びに満ち溢れて幸せな人間の姿を思い浮かべますが、悪い事をする自由もあるのでは?何て言う方もお見えになりますので本当に厄介です。☠ こういう現状を太宰さんがご存命でおられたのなら何と言われるのでしょうか?また、今の社会に対して、どんな事を感じて小説を書いてくれたでしょう?
山の生と死
植村直己さんの独り言のテープが残っています。おそらく人跡未踏の地、グリーンランドのテントの中で語った言葉だと推察致します。「嗚呼!厳しかったのう~こういう厳しいことをやらないと、自分の満足を得られないのかなあ?オレの人生って言うのは何だろうなあ?でも、やればやるほど自分の首を絞めている様な感じで!自分を無茶苦茶に痛めつけてヤリタイことをやっている方が幸せなのかも知れない?後もうあと一息、頑張らなくちゃあ~!頑張らなくちゃあ~*」と、おっしゃっていました。本音の部分を吐露したお声を聞き、「人生って本当に何だろう?」と、考えさせられてしまいました。登山の話になりますが、植村さんはこんなことを述べられています。「登山と言うモノは、決して自然に逆らってはいけない。天候が悪ければ、日程がどうであろうと留まって休息するのです。無理をして動けば死んでしまいます。その状況を素直に受け入れ停滞することも、登山の内だと認識しなければなりません。」と教えています。特に、体や衣服が濡れることの注意を促していました。
自然は恐くて残酷
人間の目から見れば、自然は美しく綺麗なモノをだけを連想しがちですが、深く考え観たりすれば残酷なことも沢山あります。先ず、強い者が勝ち、弱い者は殺されます。。「弱肉強食」自然の摂理です。昔、オオカミは生きろ!豚は死ね!と言う映画のキャッチコピーが流行りました。高度経済成長して、ゆとりが出て来ると、カネの価値が何よりも一番になり、助け合う精神が薄れ人を蹴落としてでも物質的に豊かになろうとする社会を物語っていたのでしょう!ある意味、人間社会にも弱肉強食の世界が到来したのです*但し、人間の場合は、カネや物質的な醜い欲望の為に殺人を犯してしまいます。他の生物には見られない行動です*
ゲゲゲの鬼太郎
クラウド夏のキャンプ合宿で川に向って山道を歩いていますと、皆が自然と歌を唄い始めました!それは、「ゲゲゲの鬼太郎」の歌です。何故か?笑 最初は、歌詞通りの歌でしたから私も一緒になって口ずさんでいましたが、それが何時しか変わってしまい、下品な歌になってガックリしました。「♬ゲゲ~ゲゲゲのゲ~」が「ゲゲ~00毛のゲ~☠」という感じです*最悪です★みんな面白がって唄っていました。きっと私の指導が悪いのでしょう*笑 アハハ この歌でお馴染みですが、水木しげるさんの作品で、「ゲゲゲの鬼太郎」と言うアニメ漫画がありますね! 私が小学生の頃、夏休みになると必ず放送されていました。 私が、何時も楽しく観ていますと、必ず横から母に「テレビばっかり観るな!」と、怒られていた記憶が思い出されます ☠ 先日、それが映画となったモノを偶々テレビで観ました。多分、本来の私であればチャンネルを変えているのでしょうが、以前、NHKの番組で、「水木しげるさんの戦争体験」を観させて頂いたことと、その戦争経験を基に、「ゲゲゲの鬼太郎」と言う作品が出来た経緯を知りましたので、子供の時とは全く違う視点で、真剣に興味深く観させて頂きました。そう言えば、よく人間に対して妖怪たちは人間の醜さや残酷さを嘆いていましたね!「妖怪を創ったのは人間たちだ!」と・・・きっと戦争の中で本当の地獄や、人間の醜さを見てしまったのでしょう*片腕を戦争で失いながらも、「生きていられる自分を心から幸せだと思う!」と、不自由を察して世間から尋ねられる度に、おっしゃっていたことが心に響きます。ゲゲゲの「ゲ」が何処から来たのか?不思議でしたが、幼い頃、自分の名前を上手く言えず「しげげ?ゲゲ~る」と、ドモっていたから、ゲゲゲと付けたそうです!!!悲観することなくユーモアにしてしまうとは、ナント素晴らしい方なのでしょうか***
シャーマ二ズム
私の一番好きな動物は、「アムール・トラ」です。クラウドのマークにもなっていますが、何時かロシアのアムール地方に出掛けて行き野生の姿を見てみたいと思っています。 その地方には、日本人に顔が大変似ているシャーマンの「ウデゲ族」が住んでいます。共産党時代、スターリンに脅され消滅仕掛った民族なのですが、ひた隠しに儀式を続け辛うじて生き延びました*その民族は、「トラ」を一番位の高い神として崇めています。それをお聞きしただけで、私はその方々を他人とは思えません*笑 シャーマンは、狩人ですからシカやイノシシなどを鉄砲で撃ち食糧とします。しかし、全て活用し無駄にはしません。 また、獲り過ぎることは一切しないのです。魚が獲れてもメスや子供の魚は川に返します。また、シカなども内臓や頭などは、森の恵みに感謝しながら川に流します。自然の恵みを、森の生き物達にも還元して分かち合うのです。そういう何処までも謙虚な姿勢は、森で生きる者しての「誇り」でもあるのでしょう*トラに犬や豚が殺され食われても、こう述べます。「俺たちがトラの領域に入って来たのだから当然だよ*」と・・・素晴らしい* 日本に「トラ」がいなくて残念と思う反面、良かったなあとも思います。きっと日本だったら、人間に危険が及ぶからと撃ち殺されたり、全て捕獲され動物園に入れられることでしょうから* 時には、800平方キロメートルという広大な行動範囲を持つトラですから、狭い檻に入れられれば、精神に支障を来たしオカシクなることは目に見えています。東山動物園のトラは、同じ場所を同じ様にクルクル回っていて、虐待されている様に私の目には映ります。自然に返してあげて下さい。
アムール・トラ
私の大きな希望は、山を一つ買い「クラウドの山の学校」を作ることです。沢山の願い事をすれば叶わなくなりますので、個人的な希望は出来るだけ持たない様にしていますが、敢えて何方かに、「あなた個人の希望は何かありますか?」と、聞かれたら、「ロシアに行き、アムール・トラに会い耳と尻尾と肉球を噛みたい!」と、答えるでしょう*変態!笑 私には変な癖と申しましょうか?性癖がありまして、可愛い動物を見ると、耳や尻尾、肉球を噛む癖があるのです☠ 一種の愛情表現なのですが、世間には受け入れられない様です。アハハ! 実家の猫や犬は目を瞑り何時も耐えてくれています* 赤ん坊の頬やお尻も噛みます!☠☠☠ 泣く赤ちゃんもいますが・・・★
薔薇と棘
何かを得ようとすれば、何かを失います。欲を出して見ても、結果失うモノの方が大きかったことはないでしょうか?少しズレますが、そんな時、私は、「薔薇と棘」をよく思い浮かべます。小学生の頃、綺麗なものには棘があると誰からともなく教わりました。まだまだ私は子供でしたが、物事には二面性があることを少しづつ理解してゆく大切な言葉だったなあ?と今から振り返るとそう思います。「自然保護や環境問題」と言うモノも同じで、昔は、丘陵な山や雑草林、危険な池や危ない川などが身近に沢山ありました。 そして、人間が住みやすい様に山々を削って住宅地を造り、また、交通の利便性を良くする為に、綺麗に舗装された道をドンドン整備し広げたのでしょう!自分達の周辺がインフラ整備されているから、「自然を残そう?」では、エゴと言われても仕方ないのでは?と私は、常々感じています。また、アメリカと言う国は、広大な土地がある為に土地は低価格です。少し頑張れば庶民にも手が届きます。しかし、日本では土地の価格が非常に高い!バブルが弾けて安くなったと言ってもまだまだ高額です。 ある程度の開発をしないと、土地の価格も下がらなく、国民の大多数の人が持ち家に住むことは出来ません。 考えるまでもなく、利便性の良い所に住みたい方が大勢いるから、土地価格も高くなり、その周辺も開発されます。思い起こせば、私が子供の時、周辺に池が沢山ありましたが、次々に埋め立てられて行きました*ある時、毎日ザリガニ釣りをしていた池に行きますと、半分が埋められていました。そして家が立ち、その家に人が住み始め、私達子供たちがザリガニ釣りをしている姿を、ニコニコしながら見てくれていたのが、昨日の様に思い出されます。 子供ながら、その過程を具に見たヤスユキ少年は複雑な想いをしました。池が無くなる寂しさと、幸せそうな家族*どうにも出来ない儚い気持ちが蘇ります。
心には「無いモノと有るモノ」がある
人の心には「無いものと有るモノ」があると、初めて気付きましたのは小学1年生か2年生くらいだと思います。虫を平気で殺す「昆虫採集」を見たり、ザリガニ釣りをする為のエサ?カエルを殺す場面に遭遇した時でした。何の躊躇もなく笑いながら地面に叩き付けた後、腹を引き裂いている同年代の友人を見て、ぞっとしたことがありました!可哀想に思う気持ちの有る人と、残酷なことを平気に出来る人間との違いは一体何でしょう?また、それに慣れてしまうと、当然の如く私もそれが出来る様になってしまう*慣れとは本当に恐ろしいものです。終戦記念日が過ぎましたが、きっと兵士たちも最初は戸惑いや躊躇があっても、何時しか何も感じなくなって行くのかも知れません*先日、NHKのテレビで昆虫写真家の対談番組を観ました。その中で、「昆虫には、子供達の残酷な部分を許容する寛大さがある!」と、おっしゃっていたことが印象に強く残りました。また、本来の里山の暮らし方にも言及され頷きながらお聞きして、本当に自然を愛することとは、どう言うことなのかも改めて教えて下さって感謝した次第です。無いモノと有るモノは必ずありますが、芽生えさせることはとても大切なことだと思っています。但し、「こう思え!」と言う様な強制ではなく、自然の中に連れて行き、自然に任せる?自然に委ねる方が健全だと思いますが・・・
読書や自然保護を子供達に強要する社会
前述に繋がった話になりますが、以前ある番組で、子供達が本を読まなくなった「読書離れ」を懸念したグループ代表の女性二人が、ある童話作家宅を訪れ協力を仰ぎに行きました。そこで挨拶を済ませると、グループの趣旨や成り立ち、本を読まない子供達の現状などを延々30分に渡って話し始めてしまいました。我慢し切れなくなった、この男性作家は、話を途中で打ち切りこう述べたのです。「今まで30分間、貴方達の一方的なお話を我慢して聞いていましたので、今度は私の話も聞きなさい!先ず、子供達が本を読もうが読むまいが、それは本人の自由でしょう*あなた方が良かれと思ってやることは、押しつける話になる。意図的に理想の子供達を創り上げたいのだろうが、それが本当に子供達の幸せを心から望む大人の姿か、もう一度よく考えてみなさい!」と、ご立腹されていました*自然環境団体や関連のNPOが自然の大切さを子供達に教えようと、様々なことに取り組んでおられますが、疑問に感じると時が時々あります。政府の行政機関から補助金を受けて行っても良いとは思いますが?自分自身の為に行っている!環境団体の中には、退職された方が沢山お見えになるとお聞きしますが、その方々の中には、態々環境破壊をしていると攻撃している企業に出掛けて寄付と称しお金を貰って集めたりするそうです。自分自身のお金儲け?私達は、表面的なモノだけに惑わされてはいけませんね*時々、新聞記事などでも取り上げられているNPO団体自然なんとか?の団体活動内容を拝読致しますが、私はどうしても胡散臭く感じてしまいます。 「自然の良さを分かって欲しい? 自然の大切さを感じて欲しい?」と言葉は綺麗ですが、素直な気持ちでは受け入れられないのです。 物事の両面と申しましょうか、何と申し上げれば良いのでしょう?何かを望めば何かを捨てる?両方は叶わないのです。将棋で言えば王手飛車取りはない!と言うことでしょう*多分、きっと私なら真実を伝えようとコインの裏表を話します。「自然の怖さや厳しさと、美しさ」を上から教えることなく、遊びの中で「自然を自然にありのまま」感じてもらうでしょう*どんな風に感じようとも、その人間の自由ですから、大人が意図的に入り込む必要はありません。それが心を自然に向かって解放することになると思います。大人の意向が少しでも入れば、自然=自由が消滅してしまいます。綺麗なモノには棘があるではないですけれども、何でも作用反作用があることも自分自身で気が付くことでしょう!絶滅動物種の一番の原因は人間だと言われますよね!私達が一番悪い*人間にとって便利で良い事をすればするほど被害が及びます。 私が子供の時、伯父さんに、「みんなゴミは何処に持って行くの?」と聞いたことがありましたが、現代の人間が生きていく為に食べれば必ずゴミが出てしまいます。 そのゴミ問題すら解決出来ないのに、動物の問題を解決出来る訳がないと私は思っています。自然保護を訴えるのであれば、先ずゴミ問題を考えなければいけないと言うのが私の持論です。その元を辿れば「食」を根本から見直す必要があるのではないのでしょうか?先が詰まっていますからここで終わりに致します。