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農業
農業の良さは何でしょう?私が一番に思いますのは、やはり「汗を掻く」と言うことです。農業に限りませんが、汗を掻いて一生懸命働くことが、人間にとって一番の喜びと感じているからだと思います。最近では汗を掻く事に対して、「嫌なモノ」や「辛いモノ」と捉える風潮がある様ですが、そんなことは全くありません。とても綺麗なモノです。便利に慣れ過ぎてしまいますと、人間の体を使わずに機械に遣らせることが当たり前になり汗を掻きません。それが賢いとか頭が良いことと勘違いします。楽=奈落に繋がらないでしょうか?笑 畑を耕し、稲を植え、大切に育て収穫をして喜びに満ち溢れます。私の実家の100メートルくらい離れた所に住んでいた農家のお婆ちゃんが、畑仕事の合間に近くのお菓子屋さんで、パンと牛乳を買って我が家の玄関先の石に腰掛け、美味しそうに何時も食べておられた姿を思い出します。ヤンチャ盛りの私でしたから、何もしてあげられませんでしたが、今でも、何か優しい言葉を掛けてあげればよかったのになあ*と後悔します。「お婆ちゃんおる?」と、お聞き頂いても、私は無愛想に「うん!待ってて」と言い呼びに行ったことが悔やまれます。☠ このことを、昨日、母に話しますと「あの家は、お嫁さんがとても厳しくて、お婆さんにお金を全く渡さなかったらしい* そして、お菓子すら買わせてくれなかったんだよ! だから、自分が畑で育てた芋をお嫁さんに見つからない様に内緒でお腹に隠し持って来て、私や祖母に買って貰い、その僅かなお金で大好きなジャムパンとコーヒー牛乳を飲んで食べていた*また、食べている所を見つかると怒られるんだって!だから内緒で食べないかんから、家の庭先に座って食べていたんだ*名家で大地主なのに世の中は上手く行かないもんだ*」と、淡々と語り教えてくれたのです。 私はその裏側と申しましょうか?内情の話を今聞いて、例え様のない悲しみに暮れてしまいました。 昨日の晩は、中々眠りにつけませんでした。これを書きながらも、悲しみが波の様に次々襲って来ます*もっと、この他にも色々な事が分かりましたが、お嫁さんの事情も知らない上、私の考えが及ばないところもきっとあるでしょうから書きこむことは自重し差し控えます。そんなことよりも私が最も苛まれる訳は、そのお婆さんに対して、何時も敷地内で食べている姿を温かい目で見ることなくホンの僅かでも、「何で人の庭先で食べているのだろう?」と、汚れた考えが掠めてしまった!悔やんでも悔やみ切れません*本当に自分自身が情けない。
肥やし
私が少年の頃、野球が盛んで公園やグラウンド、庭先、道路なんかでもよく皆がやっていました。 大人達に叱られたりもしましたけど、ニコニコしながら避けて通過してくれる大人も沢山いました。今も道路で遊ぶ子供達を偶に見掛けますけれども、私達の子供時代と明らかに違うと感じますのは、コミニュケーションの取り方と、相手への気遣いです。例えば、ボールを他の子供達の方に打てば危ない訳ですから、ゲームの行い方を変更したりする知恵を働かせ工夫すると言うことが、私達には自然に出来ていました。今の子達は、「人に当たって危ない」と、言うことが分からないのか?または、当たっても仕方ないと思っているのかなあ?と、そう感じる時が沢山あります。その他にも、大人は怖いモノと私達は思っていましたから、誰かが道を歩いてこられれば、当然の如くプレーを中断し、通り過ぎるのを待つことは当たり前でした。 更に、ボールが畑の中に入ってしまえば、特別誰かに教わらなくても、みんなは自然に野菜や種が蒔いてある所を避け、爪先立ちで走って拾いに行っていました。叱られるといけないから急いで!今は、そうではない場面を何回も見掛けます。仕方ないでしょう?ワザと入れた訳ではないからと言わぬが如くに ☠ 野球関係者に、この話をしましたところ、やはりよくある話だそうです。 何故なのでしょう?親や大人達が子供に甘くなったのが大きな原因ではないか?と、私は感じています。 大人とタメ口で話したり、子供が偉そうなことを言っても叱らない大人が多いと感じています。電車の中や、バスの中、皆が集う場所等々・・・成人式でも70歳くらいの世話役の方に「あれ!あの子何処行った?」と聞き、「ウンさっき帰りましたよ」と教えてあげれば「マ~ジ~☠」とお礼も言わないのです。二十歳にも成ると言うのに全く礼儀を知りません★親は子供が怖いのかも知れませんね? または、子供に対して何も言わなく寛容なことが、善い大人やカッコ良い親だとお考えなのかも知れません? 見た目はその方がスマート?楽?人それぞれで良いのかも知れませんが、子供達は、きっとそんなことは望んでないと思います。 叱られることは嫌でしょうが、愛情の裏返しですから、真剣に怒って貰えることは喜びです。例えその時には気付かなくても*厳しく接する=真剣な愛情ですよね* どんな師匠でも、何も注意しなくなったら、その弟子は見放されている証拠だと言われます。また、とても優秀な弟子や選手でも怒られる内は、まだまだ伸びる!この人間はもっと上に行ける人間だ!と、師匠やコーチが感じて想えば厳しい事を言い続けることでしょう*教える側も辛いものですね* 褒めて褒めまくっていれば、良い師匠、良いコーチと言われて弟子や選手に嫌われなくても済みますから・・・キャンプの時、バスの中で子供達に大変人気がある「メジャー」と言うアニメ漫画を流しましたが、私は直ぐ嫌いになりました!笑 その訳は、親やコーチ、先輩に対して、生意気な口を聞くことがカッコ良く描かれているからです。こんなアニメを観せては子供達の将来が心配です。謙虚さは欠片もありません。何でも当たり前、自分本位で自分さえ良ければの考えを助長してしまいます。生意気なのは、若さの特権なのかも知れませんが、だったら自分一人で生きてみなさい!と、私なら言います。 住む家すら無くなくなりますから、自分の浅はかさに直ぐ気が付くことでしょう*人生はそんなに甘いモノではなく、良い事と悪い事が同じくらいあるのです。喜びの後は悲しみもあり、悲しみの後には、喜びもある*そういったことが、解らない内は人生の勉強がまだまだ足らないのかも知れませんね? 子供の内には当然そんなこと分かりませんし、見えませんから、だからこそ戒める大人の存在が必要なのです。 それを放棄して、何故子供達の幸せや、将来を語ることが出来るのでしょうか!何方に申し上げているのでしょう?自分にも分かりません*笑 多分、もう一人の私が自分自身に向かって言っているのだと想います。 「人生の肥やし」とか「人生の肥やしが足らない」とか私が子供の時に、よく大人達が言っていたことを思い出します。人間が成長するには、世間の厳しい雨風を受けたりしなければならないと思います。 肥やしが足らなかったり、また多くやり過ぎれば、心の痩せ細った弱い人間を作ってしまうのでしょう?申し上げている私こそ、一番肥やしが足らない気がします。ガックリ*笑
猪木さんの師匠
猪木さんの師匠は「力道山」さんですが、猪木さんは叱られ殴られ続けたと言われています。その時に猪木さんは、余りの仕打ちに耐えかねて殺意すら感じたこともあったと、後に回顧しておられました。そして、何回も逃げよう!何回も辞めよう!または辞めてやる!と思ったそうです。でも辞めませんでした。意地があったのでしょう?私が感じます事は、どんなことでも辞めるのは簡単だと思うのです。 しかし、続ける難しいことの選択をした方が、きっと後々後悔をしないことを感じたのではないでしょうか?これも、もしかしたら「運命」なのかも知れませんが、もうひとつ大切なことは、見方を変えたらどうでしょうか!違う真実が見えて来そうです。猪木さん側からではなく、力道山さんの方から見た時に初めて本当の真実が見える気が致します。もしかしたら、力道山さんには、猪木さんの物凄い可能性を感じていたのかも知れませんね?「こいつは、世界一の男に成れる」と、感性の部分で分かったのでしょう!私は絶対そう思います。力道山さんと言う方は、日本プロレスの先駆者です。そして、日本中の人々を熱狂させました!誰も道を切り開いていないモノを成し遂げたのです。誰かの道の後を歩くことは簡単に出来てしまいます。登山なんかでも雪渓の先頭で歩く方は、とても大変だとお聞きしたことがありますが、何でも先駆けてゆく人の苦労は生半可なモノではありません。更に、力道山さんには、どんな状況にも屈しない根性があったと言われ、ビジネスの才覚に秀でた方でしたから、猪木さんの才能を見抜けない筈はありません。それと同時に戦う者としては邪魔なモノも見えたのではないか?と、私は思います。だからこそ、人が善く優しい猪木さんの性格や、人間性を感じ取り、「そんな甘ちょろいことでは、世界一には成れんのだぞ!」と、心を鬼にし、涙を飲みながら殴り叱り続けたのかも知れません。弟子は沢山いた中でも猪木さんだけなのですから、そうされ続けたのは* 2・3日前に、猪木さんと私がお会いして、お話出来た夢を観たものですから、少し猪木さんのことを話してみました。 夢の中で色々お話した後、猪木さんとの別れ間際に、「最後に何かありますか?」と、猪木さんが私に聞いて下さったものですから、私は勇気を振り絞って、「抱きしめて良いですか?」と、お聞きすると、「頬笑みながら良いですよ*」と、答えられ許して貰えました*その時に何故か私は、胸の辺りの匂いを嗅いでいたのです!笑 きっと永遠に記憶を留めたかったのでしょう* 若い時に人よりも沢山苦労を重ねた猪木さんだからこそ、どんな強い相手や、条件の中でも勝ち続けることが出来たのでしょうね!但し、残念なことは、猪木さん自身は鬼には成れずに後継者を育成することまでは叶いませんでした*何もかも上手く行く何て、虫が良過ぎます!これで良いのです。きっと***そうですよね!猪木さん?
ヤスユキの師匠はいない
私に師匠はいません。もし要るとすれば「トラ、ネコ、犬」と言う動物達ですね!よく「私の師匠は00先生だ」何て言うことをお聞き致しますが、私には似合わないと思っています。お師匠さんを持つことは悪いことではないですが、その方だって人間ですから「神様」ではない筈です。しかし、そんなことも理解せず、師匠に対して1000の内1つでも自身が納得出来なく、信じていたモノが崩れれば、弟子がどんな風に変わって行くものなのかを悲しいかな私は知って分かっています。 また、世間一般的に大多数の人が信じていることや、大勢が常識的なことと思っていることなどを、私は「本当にそうなんやろうか?」と、考える人間だから師匠は持たない方が良いのです。 失礼に当たってしまいますね*更に、時代を越えて普遍的に変わらないことなど、極僅かなモノしかないとも感じています。尊敬する人は沢山います。 猪木さん、王さん、太宰さん、ペレさん、農家のお爺さん、お婆さん、などなど* 師匠とは?学問や技術、哲学、生き方などを教える先生のことでしょうか?しかし、自分が生きて行く訳ですからアドバイスや教えは受けても実行する判断は先生ではありません。私自身です。そう!自分にとって都合の良い師匠は、その師匠さんにご迷惑です。そう言えば、私が子供の頃、柔道のアニメ漫画で「田舎っぺ大将」と言うモノがありました。その主人公のダイザイモンの師匠は、何と「ニャンコ先生」と言うネコでした!このニャンコ先生は凄い師匠なのですが、可愛いメスネコを見ると、直ぐ「ニャ~んわ~ん❤もしかして~?(=^・^=)」と、ダラシない色男ネコになってしまいます。そんな尊敬出来ないモノがあっても、師弟がお互いの善い所と悪い所を受け入れ、信頼し認め合う、ほのぼのとした物語でした*ダイザイモンも、好きな女の子にカッコ良い所を見せ様としますが、何時もズッコケてばかりいて、涙を鼻水の様に垂らして泣いていました*「悲しいダス*」と言って☆ 師匠と言う題目から思い出しました。懐かしい*大分、話が脱線しましたが、私みたいな不遜な者は、師匠をもたして頂くことよりも、「私淑」した方が私らしい学び方だと感じています。きっと真実は、その遣り方しか私には出来ないのでしょうね!
キャンプ
最近のキャンプは、サバイバルからは程遠いと感じています。発電機やテレビ、ガスコンロなどなど・・・現代設備をそのまま持ち込み便利な物をフル活用して、キャンプらしきモノの体験するのでしょう?皆さまの自由で良いのですが、本来のキャンプは不自由さを楽しんでいたと思います。火の熾し方から始まり、テントを張る位置を考えたり、周りの水道(みずみち)を確保することなど、知恵を働かせる所こそに、言い知れぬ喜びがありました。自然に打ち勝つとか、征服すると言うよりも自然から学ばして貰っている感覚ではなかったのでしょうか?サバイバルとは生き残ると言う意味なのでしょう!生きる為に何をすれば良いのか?また、何をしてはダメなのか?間違えれば直ぐ自身に跳ね返って来ます。答えはあってない様なモノです。臨機応変に対応出来なければなりません。便利なキャンプ道具や、綺麗に整備され尽くした電源付きのオートキャンプ場を見掛ける度に時代の流れを感じます。 近代的な都市に住んでいれば、自然が恋しくなりますから、森の中に行って見たくなることは人間の本能的なモノなのかも知れませんが、でも、そこにまで便利な道具を持ち込んでしまいますと、本当の自然の良さは薄れると思います。少し話がズレますが、登山家が必ず使う道具でナイフがあります。その中で「アーミーナイフ」と言うスイス製の物があるのですが、年々利便性を追求し、機能が沢山付く様になりました。 ナイフの大小、キリ、スプーン、フォーク、虫眼鏡、ライター、ノコギリ、ドライバー・・・そのナイフについて植村さんはこんなことをおっしゃっていました。「余り沢山の機能が付いていますと、本来のナイフの良さが無くなってしまう!最低限の物が付いていた方がナイフ本来の良さが発揮され、また使い易いのです。」 この言葉は、何となく豊かな今の時代に何かを提言されている様にも私は感じます*関連して私は時々こんな事も考えます。それは、「道具は可哀想だなあ?」と・・・。性能や機能が良くなればなるで、問題も叫ばれ続けているからです。例えば車です。私の身内もいるトヨタのことですが!笑 トヨタのクラウンと言う車は、エンジンの音がしない人に優しい静かな車を目指し開発して来たと言われていますが、今はハイブリットが人気ですね!その為、クラウンも同様ですが、静か過ぎてエンジン音が聞こえなく歩行者にとって非常に危険だ!何て人間様に批判されています。車くんからしたら、「私達は、一体どうすれば良いのですか???」と、思っていることでしょう* エンジンの音が大きくてウルサイと言われ、今度は静か過ぎると言う?厄介だなあ人間て言う奴は★ 便利なことや、人間にとって良いことばかりを追求していると、何時か自分自身でも「何をどうして、どうしたいのか?」解らなくなって行くことでしょう ☠☠☠
スポーツと体育
スポーツと体育の違いは何でしょう? 体育が大好きだった学生の頃は、そんなこと考えたこともなかったのですが、子供達に指導をさせて頂く様になって、初めて真剣に考えたことを思い出します。単純にスポーツは「自ら好んでやるモノ」で、「体育は教えて頂くモノ」と定義してはいけないでしょうか?今の時代は、少しそれに逆行と申しましょうか?変貌している様な気がします。水泳やサッカーは、クラブで教えて貰うモノで、学校の体育はヤラされるモノと捉えてはいないでしょうか?当クラブで働いていた大学生から、「大学まで行っても、まだ体育をやらされるのか!」と、罰当たりなことを何度も聞きました。もし、私が大学体育の先生になれたとしましたら、(成れませんが*笑)「何言っとるや?大学生やで命っち切りやらなかんガン」*+$%&#すみません*瀬戸弁です!笑 と言います。体の機能や、使い方ほど奥が深く不思議なことはありません。また、大学生くらいにならないと、習得出来ないことは沢山あります。更に、そんな難しいことを理解したり、解明したりすることはとても良い研究材料だと私は思うのです。体を作る「体力作り」から卒業して、体の神秘的な機能や仕組み、体感などなど高度で精妙なことを真剣に学ぶのです。よく、「文武両道」と言われますが、勉強とスポーツと言う意味だけではないと、私は思っています。体を使いながら脳を働かせることこそ、文武両道ではないでしょうか? 考えてはイケナイ世界や、でも考えなければならない?と言う、相矛盾することに取り組めるのは、ある程度大人にならないと出来ないと考えます。大学生だからと、恰好を付けてアメリカの科学的研究を後追いすることよりも、余程、身近で遣り甲斐のあることではないか?政府から研究費用を貰いながら一生懸命研究していると思いますが、時間が掛かり過ぎます。自分達で、研究費用を捻出する土台があれば、きっと、もっともっと必死になるでしょう!制限のない所でのんびりとやっていては「ラッキー」なことを待っている?運?受動的です。補助金を頂いている為に、成果や結果が出なくても仕方ないと思うことは往々に起こり得ます。 そして、万に一つでも、研究が評価されノーベル賞を貰っても、その個人の功績のみが称えられ称賛される!チームでやって来たことなのに*批判的になって来ましたので止めます。 体育とスポーツの話に戻しますが、スポーツと言うモノは本来、お金儲けが目的ではありませんでした。 汗して働いた上で、少し、ゆとりが出来たから「みんなで遊ぼう!」が、スポーツの始まりだとお聞きしました。それが何時しかカネ儲けになり、また巨大なビジネスとなったのです。カネ儲けがイケナイと申し上げるつもりは毛頭ございません。しかし、カネ儲けだけで選手があちらこちらに移籍することについては違和感があります。 カネが良いからあっちに行こう!これが人間の綺麗な姿でしょうか* プロだから何でも許されるのでしょうか?人間ですから、少し儲かればきっと、「もっともっと」となるでしょう!しかし、日本には「慎む、恥を知る、足るを知る」と言う言葉がある様に、魅せる所があるのもプロの筈です。 せめて子供達に見える所くらいは、プライドを持ってカッコ良くあって欲しいと思います。「損だけれども敢えてこうする」とか「こちらに行けば楽な道だけれども、オレは棘の道を歩む」「それでも俺は、火中の栗を拾う」とか気概を示して欲しいと思います。勇気と熱い情熱で☆ 私が何故スポーツが好きなのか? それは「一円の得にもならないことでも、一生懸命に取り組み、綺麗な汗を掻いた姿が美しく観える」からです。野球もサッカーもゴルファーも皆、賞金や年棒何十億!高過ぎませんか? カネの為にスポーツをすれば手段になります。今のどん底の生活から脱出したいのなら道理が立ちますが、しかし、嫌な例えですけれども中流家庭の子供達が、カネ持ちに成りたい!金が沢山欲しいから「00の選手」に成りたい?では何か虚しさを覚えます*
農業から、ここまで話が広がりましたが、「体を使い汗を掻く」ことによって、今の考え方を改めた方が、皆の幸せに繋がるのではないか?面倒なことでも体を使い行えば、ちゃんと隠れている人の姿が見えて感謝の気持ちが芽生えて来ると思います。私の反省を含めてそう感じております。終わります。
農業の良さは何でしょう?私が一番に思いますのは、やはり「汗を掻く」と言うことです。農業に限りませんが、汗を掻いて一生懸命働くことが、人間にとって一番の喜びと感じているからだと思います。最近では汗を掻く事に対して、「嫌なモノ」や「辛いモノ」と捉える風潮がある様ですが、そんなことは全くありません。とても綺麗なモノです。便利に慣れ過ぎてしまいますと、人間の体を使わずに機械に遣らせることが当たり前になり汗を掻きません。それが賢いとか頭が良いことと勘違いします。楽=奈落に繋がらないでしょうか?笑 畑を耕し、稲を植え、大切に育て収穫をして喜びに満ち溢れます。私の実家の100メートルくらい離れた所に住んでいた農家のお婆ちゃんが、畑仕事の合間に近くのお菓子屋さんで、パンと牛乳を買って我が家の玄関先の石に腰掛け、美味しそうに何時も食べておられた姿を思い出します。ヤンチャ盛りの私でしたから、何もしてあげられませんでしたが、今でも、何か優しい言葉を掛けてあげればよかったのになあ*と後悔します。「お婆ちゃんおる?」と、お聞き頂いても、私は無愛想に「うん!待ってて」と言い呼びに行ったことが悔やまれます。☠ このことを、昨日、母に話しますと「あの家は、お嫁さんがとても厳しくて、お婆さんにお金を全く渡さなかったらしい* そして、お菓子すら買わせてくれなかったんだよ! だから、自分が畑で育てた芋をお嫁さんに見つからない様に内緒でお腹に隠し持って来て、私や祖母に買って貰い、その僅かなお金で大好きなジャムパンとコーヒー牛乳を飲んで食べていた*また、食べている所を見つかると怒られるんだって!だから内緒で食べないかんから、家の庭先に座って食べていたんだ*名家で大地主なのに世の中は上手く行かないもんだ*」と、淡々と語り教えてくれたのです。 私はその裏側と申しましょうか?内情の話を今聞いて、例え様のない悲しみに暮れてしまいました。 昨日の晩は、中々眠りにつけませんでした。これを書きながらも、悲しみが波の様に次々襲って来ます*もっと、この他にも色々な事が分かりましたが、お嫁さんの事情も知らない上、私の考えが及ばないところもきっとあるでしょうから書きこむことは自重し差し控えます。そんなことよりも私が最も苛まれる訳は、そのお婆さんに対して、何時も敷地内で食べている姿を温かい目で見ることなくホンの僅かでも、「何で人の庭先で食べているのだろう?」と、汚れた考えが掠めてしまった!悔やんでも悔やみ切れません*本当に自分自身が情けない。
肥やし
私が少年の頃、野球が盛んで公園やグラウンド、庭先、道路なんかでもよく皆がやっていました。 大人達に叱られたりもしましたけど、ニコニコしながら避けて通過してくれる大人も沢山いました。今も道路で遊ぶ子供達を偶に見掛けますけれども、私達の子供時代と明らかに違うと感じますのは、コミニュケーションの取り方と、相手への気遣いです。例えば、ボールを他の子供達の方に打てば危ない訳ですから、ゲームの行い方を変更したりする知恵を働かせ工夫すると言うことが、私達には自然に出来ていました。今の子達は、「人に当たって危ない」と、言うことが分からないのか?または、当たっても仕方ないと思っているのかなあ?と、そう感じる時が沢山あります。その他にも、大人は怖いモノと私達は思っていましたから、誰かが道を歩いてこられれば、当然の如くプレーを中断し、通り過ぎるのを待つことは当たり前でした。 更に、ボールが畑の中に入ってしまえば、特別誰かに教わらなくても、みんなは自然に野菜や種が蒔いてある所を避け、爪先立ちで走って拾いに行っていました。叱られるといけないから急いで!今は、そうではない場面を何回も見掛けます。仕方ないでしょう?ワザと入れた訳ではないからと言わぬが如くに ☠ 野球関係者に、この話をしましたところ、やはりよくある話だそうです。 何故なのでしょう?親や大人達が子供に甘くなったのが大きな原因ではないか?と、私は感じています。 大人とタメ口で話したり、子供が偉そうなことを言っても叱らない大人が多いと感じています。電車の中や、バスの中、皆が集う場所等々・・・成人式でも70歳くらいの世話役の方に「あれ!あの子何処行った?」と聞き、「ウンさっき帰りましたよ」と教えてあげれば「マ~ジ~☠」とお礼も言わないのです。二十歳にも成ると言うのに全く礼儀を知りません★親は子供が怖いのかも知れませんね? または、子供に対して何も言わなく寛容なことが、善い大人やカッコ良い親だとお考えなのかも知れません? 見た目はその方がスマート?楽?人それぞれで良いのかも知れませんが、子供達は、きっとそんなことは望んでないと思います。 叱られることは嫌でしょうが、愛情の裏返しですから、真剣に怒って貰えることは喜びです。例えその時には気付かなくても*厳しく接する=真剣な愛情ですよね* どんな師匠でも、何も注意しなくなったら、その弟子は見放されている証拠だと言われます。また、とても優秀な弟子や選手でも怒られる内は、まだまだ伸びる!この人間はもっと上に行ける人間だ!と、師匠やコーチが感じて想えば厳しい事を言い続けることでしょう*教える側も辛いものですね* 褒めて褒めまくっていれば、良い師匠、良いコーチと言われて弟子や選手に嫌われなくても済みますから・・・キャンプの時、バスの中で子供達に大変人気がある「メジャー」と言うアニメ漫画を流しましたが、私は直ぐ嫌いになりました!笑 その訳は、親やコーチ、先輩に対して、生意気な口を聞くことがカッコ良く描かれているからです。こんなアニメを観せては子供達の将来が心配です。謙虚さは欠片もありません。何でも当たり前、自分本位で自分さえ良ければの考えを助長してしまいます。生意気なのは、若さの特権なのかも知れませんが、だったら自分一人で生きてみなさい!と、私なら言います。 住む家すら無くなくなりますから、自分の浅はかさに直ぐ気が付くことでしょう*人生はそんなに甘いモノではなく、良い事と悪い事が同じくらいあるのです。喜びの後は悲しみもあり、悲しみの後には、喜びもある*そういったことが、解らない内は人生の勉強がまだまだ足らないのかも知れませんね? 子供の内には当然そんなこと分かりませんし、見えませんから、だからこそ戒める大人の存在が必要なのです。 それを放棄して、何故子供達の幸せや、将来を語ることが出来るのでしょうか!何方に申し上げているのでしょう?自分にも分かりません*笑 多分、もう一人の私が自分自身に向かって言っているのだと想います。 「人生の肥やし」とか「人生の肥やしが足らない」とか私が子供の時に、よく大人達が言っていたことを思い出します。人間が成長するには、世間の厳しい雨風を受けたりしなければならないと思います。 肥やしが足らなかったり、また多くやり過ぎれば、心の痩せ細った弱い人間を作ってしまうのでしょう?申し上げている私こそ、一番肥やしが足らない気がします。ガックリ*笑
猪木さんの師匠
猪木さんの師匠は「力道山」さんですが、猪木さんは叱られ殴られ続けたと言われています。その時に猪木さんは、余りの仕打ちに耐えかねて殺意すら感じたこともあったと、後に回顧しておられました。そして、何回も逃げよう!何回も辞めよう!または辞めてやる!と思ったそうです。でも辞めませんでした。意地があったのでしょう?私が感じます事は、どんなことでも辞めるのは簡単だと思うのです。 しかし、続ける難しいことの選択をした方が、きっと後々後悔をしないことを感じたのではないでしょうか?これも、もしかしたら「運命」なのかも知れませんが、もうひとつ大切なことは、見方を変えたらどうでしょうか!違う真実が見えて来そうです。猪木さん側からではなく、力道山さんの方から見た時に初めて本当の真実が見える気が致します。もしかしたら、力道山さんには、猪木さんの物凄い可能性を感じていたのかも知れませんね?「こいつは、世界一の男に成れる」と、感性の部分で分かったのでしょう!私は絶対そう思います。力道山さんと言う方は、日本プロレスの先駆者です。そして、日本中の人々を熱狂させました!誰も道を切り開いていないモノを成し遂げたのです。誰かの道の後を歩くことは簡単に出来てしまいます。登山なんかでも雪渓の先頭で歩く方は、とても大変だとお聞きしたことがありますが、何でも先駆けてゆく人の苦労は生半可なモノではありません。更に、力道山さんには、どんな状況にも屈しない根性があったと言われ、ビジネスの才覚に秀でた方でしたから、猪木さんの才能を見抜けない筈はありません。それと同時に戦う者としては邪魔なモノも見えたのではないか?と、私は思います。だからこそ、人が善く優しい猪木さんの性格や、人間性を感じ取り、「そんな甘ちょろいことでは、世界一には成れんのだぞ!」と、心を鬼にし、涙を飲みながら殴り叱り続けたのかも知れません。弟子は沢山いた中でも猪木さんだけなのですから、そうされ続けたのは* 2・3日前に、猪木さんと私がお会いして、お話出来た夢を観たものですから、少し猪木さんのことを話してみました。 夢の中で色々お話した後、猪木さんとの別れ間際に、「最後に何かありますか?」と、猪木さんが私に聞いて下さったものですから、私は勇気を振り絞って、「抱きしめて良いですか?」と、お聞きすると、「頬笑みながら良いですよ*」と、答えられ許して貰えました*その時に何故か私は、胸の辺りの匂いを嗅いでいたのです!笑 きっと永遠に記憶を留めたかったのでしょう* 若い時に人よりも沢山苦労を重ねた猪木さんだからこそ、どんな強い相手や、条件の中でも勝ち続けることが出来たのでしょうね!但し、残念なことは、猪木さん自身は鬼には成れずに後継者を育成することまでは叶いませんでした*何もかも上手く行く何て、虫が良過ぎます!これで良いのです。きっと***そうですよね!猪木さん?
ヤスユキの師匠はいない
私に師匠はいません。もし要るとすれば「トラ、ネコ、犬」と言う動物達ですね!よく「私の師匠は00先生だ」何て言うことをお聞き致しますが、私には似合わないと思っています。お師匠さんを持つことは悪いことではないですが、その方だって人間ですから「神様」ではない筈です。しかし、そんなことも理解せず、師匠に対して1000の内1つでも自身が納得出来なく、信じていたモノが崩れれば、弟子がどんな風に変わって行くものなのかを悲しいかな私は知って分かっています。 また、世間一般的に大多数の人が信じていることや、大勢が常識的なことと思っていることなどを、私は「本当にそうなんやろうか?」と、考える人間だから師匠は持たない方が良いのです。 失礼に当たってしまいますね*更に、時代を越えて普遍的に変わらないことなど、極僅かなモノしかないとも感じています。尊敬する人は沢山います。 猪木さん、王さん、太宰さん、ペレさん、農家のお爺さん、お婆さん、などなど* 師匠とは?学問や技術、哲学、生き方などを教える先生のことでしょうか?しかし、自分が生きて行く訳ですからアドバイスや教えは受けても実行する判断は先生ではありません。私自身です。そう!自分にとって都合の良い師匠は、その師匠さんにご迷惑です。そう言えば、私が子供の頃、柔道のアニメ漫画で「田舎っぺ大将」と言うモノがありました。その主人公のダイザイモンの師匠は、何と「ニャンコ先生」と言うネコでした!このニャンコ先生は凄い師匠なのですが、可愛いメスネコを見ると、直ぐ「ニャ~んわ~ん❤もしかして~?(=^・^=)」と、ダラシない色男ネコになってしまいます。そんな尊敬出来ないモノがあっても、師弟がお互いの善い所と悪い所を受け入れ、信頼し認め合う、ほのぼのとした物語でした*ダイザイモンも、好きな女の子にカッコ良い所を見せ様としますが、何時もズッコケてばかりいて、涙を鼻水の様に垂らして泣いていました*「悲しいダス*」と言って☆ 師匠と言う題目から思い出しました。懐かしい*大分、話が脱線しましたが、私みたいな不遜な者は、師匠をもたして頂くことよりも、「私淑」した方が私らしい学び方だと感じています。きっと真実は、その遣り方しか私には出来ないのでしょうね!
キャンプ
最近のキャンプは、サバイバルからは程遠いと感じています。発電機やテレビ、ガスコンロなどなど・・・現代設備をそのまま持ち込み便利な物をフル活用して、キャンプらしきモノの体験するのでしょう?皆さまの自由で良いのですが、本来のキャンプは不自由さを楽しんでいたと思います。火の熾し方から始まり、テントを張る位置を考えたり、周りの水道(みずみち)を確保することなど、知恵を働かせる所こそに、言い知れぬ喜びがありました。自然に打ち勝つとか、征服すると言うよりも自然から学ばして貰っている感覚ではなかったのでしょうか?サバイバルとは生き残ると言う意味なのでしょう!生きる為に何をすれば良いのか?また、何をしてはダメなのか?間違えれば直ぐ自身に跳ね返って来ます。答えはあってない様なモノです。臨機応変に対応出来なければなりません。便利なキャンプ道具や、綺麗に整備され尽くした電源付きのオートキャンプ場を見掛ける度に時代の流れを感じます。 近代的な都市に住んでいれば、自然が恋しくなりますから、森の中に行って見たくなることは人間の本能的なモノなのかも知れませんが、でも、そこにまで便利な道具を持ち込んでしまいますと、本当の自然の良さは薄れると思います。少し話がズレますが、登山家が必ず使う道具でナイフがあります。その中で「アーミーナイフ」と言うスイス製の物があるのですが、年々利便性を追求し、機能が沢山付く様になりました。 ナイフの大小、キリ、スプーン、フォーク、虫眼鏡、ライター、ノコギリ、ドライバー・・・そのナイフについて植村さんはこんなことをおっしゃっていました。「余り沢山の機能が付いていますと、本来のナイフの良さが無くなってしまう!最低限の物が付いていた方がナイフ本来の良さが発揮され、また使い易いのです。」 この言葉は、何となく豊かな今の時代に何かを提言されている様にも私は感じます*関連して私は時々こんな事も考えます。それは、「道具は可哀想だなあ?」と・・・。性能や機能が良くなればなるで、問題も叫ばれ続けているからです。例えば車です。私の身内もいるトヨタのことですが!笑 トヨタのクラウンと言う車は、エンジンの音がしない人に優しい静かな車を目指し開発して来たと言われていますが、今はハイブリットが人気ですね!その為、クラウンも同様ですが、静か過ぎてエンジン音が聞こえなく歩行者にとって非常に危険だ!何て人間様に批判されています。車くんからしたら、「私達は、一体どうすれば良いのですか???」と、思っていることでしょう* エンジンの音が大きくてウルサイと言われ、今度は静か過ぎると言う?厄介だなあ人間て言う奴は★ 便利なことや、人間にとって良いことばかりを追求していると、何時か自分自身でも「何をどうして、どうしたいのか?」解らなくなって行くことでしょう ☠☠☠
スポーツと体育
スポーツと体育の違いは何でしょう? 体育が大好きだった学生の頃は、そんなこと考えたこともなかったのですが、子供達に指導をさせて頂く様になって、初めて真剣に考えたことを思い出します。単純にスポーツは「自ら好んでやるモノ」で、「体育は教えて頂くモノ」と定義してはいけないでしょうか?今の時代は、少しそれに逆行と申しましょうか?変貌している様な気がします。水泳やサッカーは、クラブで教えて貰うモノで、学校の体育はヤラされるモノと捉えてはいないでしょうか?当クラブで働いていた大学生から、「大学まで行っても、まだ体育をやらされるのか!」と、罰当たりなことを何度も聞きました。もし、私が大学体育の先生になれたとしましたら、(成れませんが*笑)「何言っとるや?大学生やで命っち切りやらなかんガン」*+$%&#すみません*瀬戸弁です!笑 と言います。体の機能や、使い方ほど奥が深く不思議なことはありません。また、大学生くらいにならないと、習得出来ないことは沢山あります。更に、そんな難しいことを理解したり、解明したりすることはとても良い研究材料だと私は思うのです。体を作る「体力作り」から卒業して、体の神秘的な機能や仕組み、体感などなど高度で精妙なことを真剣に学ぶのです。よく、「文武両道」と言われますが、勉強とスポーツと言う意味だけではないと、私は思っています。体を使いながら脳を働かせることこそ、文武両道ではないでしょうか? 考えてはイケナイ世界や、でも考えなければならない?と言う、相矛盾することに取り組めるのは、ある程度大人にならないと出来ないと考えます。大学生だからと、恰好を付けてアメリカの科学的研究を後追いすることよりも、余程、身近で遣り甲斐のあることではないか?政府から研究費用を貰いながら一生懸命研究していると思いますが、時間が掛かり過ぎます。自分達で、研究費用を捻出する土台があれば、きっと、もっともっと必死になるでしょう!制限のない所でのんびりとやっていては「ラッキー」なことを待っている?運?受動的です。補助金を頂いている為に、成果や結果が出なくても仕方ないと思うことは往々に起こり得ます。 そして、万に一つでも、研究が評価されノーベル賞を貰っても、その個人の功績のみが称えられ称賛される!チームでやって来たことなのに*批判的になって来ましたので止めます。 体育とスポーツの話に戻しますが、スポーツと言うモノは本来、お金儲けが目的ではありませんでした。 汗して働いた上で、少し、ゆとりが出来たから「みんなで遊ぼう!」が、スポーツの始まりだとお聞きしました。それが何時しかカネ儲けになり、また巨大なビジネスとなったのです。カネ儲けがイケナイと申し上げるつもりは毛頭ございません。しかし、カネ儲けだけで選手があちらこちらに移籍することについては違和感があります。 カネが良いからあっちに行こう!これが人間の綺麗な姿でしょうか* プロだから何でも許されるのでしょうか?人間ですから、少し儲かればきっと、「もっともっと」となるでしょう!しかし、日本には「慎む、恥を知る、足るを知る」と言う言葉がある様に、魅せる所があるのもプロの筈です。 せめて子供達に見える所くらいは、プライドを持ってカッコ良くあって欲しいと思います。「損だけれども敢えてこうする」とか「こちらに行けば楽な道だけれども、オレは棘の道を歩む」「それでも俺は、火中の栗を拾う」とか気概を示して欲しいと思います。勇気と熱い情熱で☆ 私が何故スポーツが好きなのか? それは「一円の得にもならないことでも、一生懸命に取り組み、綺麗な汗を掻いた姿が美しく観える」からです。野球もサッカーもゴルファーも皆、賞金や年棒何十億!高過ぎませんか? カネの為にスポーツをすれば手段になります。今のどん底の生活から脱出したいのなら道理が立ちますが、しかし、嫌な例えですけれども中流家庭の子供達が、カネ持ちに成りたい!金が沢山欲しいから「00の選手」に成りたい?では何か虚しさを覚えます*
農業から、ここまで話が広がりましたが、「体を使い汗を掻く」ことによって、今の考え方を改めた方が、皆の幸せに繋がるのではないか?面倒なことでも体を使い行えば、ちゃんと隠れている人の姿が見えて感謝の気持ちが芽生えて来ると思います。私の反省を含めてそう感じております。終わります。
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