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武士や侍をイメージしまして、まず最初に思い浮かびますのは、やはり「刀」ではないでしょうか?刀には何か不思議な魔力がある様な気がします。ちょっと表現方法が分からないのですが、何とも言い難い感じが「言い知れぬ魅力」なのでしょう!ただ人を斬るとかそんな物ではありません。お守りに似た感覚?覚悟とか、自身と向き合わさせて頂ける物だと私は思います。そう言えば、守り刀として「懐剣」を亡くなった方の胸に置きますよね*

手裏剣

手裏剣と言う名称は、皆さんご存じなのに実態や歴史は余り知られていないと言う、実に変な物だと思います。有名な物なのに知らない? それが面白い所ですね!でも、私達が思っている以上に、よく使われていたのではないか?と感じています。何故なら、戦の時に一番使われ能力を発揮した物は何かと申しますと、刀ではなく、弓が一番でして(40%)くらい、その次が鉄砲(20%)、そして槍が(20%)、そのまた次が「イシナ」は瀬戸弁?笑 石のことです!石をぶつける礫(10%)、最後が刀で(5%)以下だそうです。パーセンテージは、応仁の乱から、島原の乱までの負傷者記録を纏められた数字です。人間が数えたり調べたことですから、余り当てにはなりませんが、私が想像するに遠く離れてない感じ?気が致しますので敢えて記しました!笑 やはり時代は変わっても、飛道具は最強の武器なんですね! 自分自身は傷つかなく相手だけを!と、なれば当然のことだと思います。その飛道具のなかでも技術的に一番難しい物が、手裏剣だったのではないでしょうか? 特に棒手裏剣は相手が奪っても、使えなければ役に立ちませんから、この上ない武器になり得ていたのでしょう!気配の出難い技は最強の武器です。不意をつけますからね!

質と思考の転換

このHPの動画でお観せしていますが、最初の内は野球の投げ方で、スポーツ理論に基づき体を捩じり捻って体重移動をしながら投げています。最初から振り被らないで投げ様としていましたが、距離が遠くなるに連れてパワー不足になり、的に刺さりませんでした。お聞き出来る先生はいませんから、自分の体と対話しながら修正して行くしかありません。文章にしますと本意が伝わり難いですね!何か教えて頂ける先生を乞うている様に書いていますが、そういったことは全く御座いません。むしろ、私にとっては真っ暗闇の未知の世界に入って行く様な感じでワクワク致します。誰かに教えて頂いたり、お聞きすれば道筋が照らされて、きっと歩き易いのでしょうが、でも、そうすれば先入観から、感覚や感情の受け皿が小さくなって勿体無く思うのです。好奇心と警戒心を合わせ持ち、ある時は大胆に、そして、ある時は臆病なくらい慎重になりながら、少しづつ少しづつ歩を進め、様々な失敗を重ね、痛い思いを沢山して階段を登り、何でも自分で出来る様になりたく存じます。 当然、教えを乞わなければ何も出来ない事もありますが、何処までも受動的にならない様に気を付けたいです。その両道の中には、私自身の想いが強過ぎて指導に背き、回り道をしたり、役に立たないと思われることも、私のことですから行ってしまうでしょう!☠ ある意味それが私らしい個性です!笑 しかし、その余分なことや、バカなこと、無駄なことも私にとりましては、とてもとても大切で貴重な財産なのです。弱い立場の方々が、何も分からなくて戸惑う不安な気持ちがよく分かるのも人間?人として大切なことだと考えます。その為には、自ら誰にも頼れない状況や、どうすれば良いのか分からないという四面楚歌のなか、本当に身に詰まされた経験がなければ、その人のことを理解してあげることなど出来ないと私は思っています。まして、私の様な不遜な者が人に何か指導をさせて頂く立場なら、他の指導者や、偉い先生からの「受け売り」や「カリキュラム」で習ったことを、そのまま偉そうに教えるなんて絶対に出来ません。と、言うよりも恥ずかしくて出来ません。自分が汗を掻き苦悩し、生み出したモノなら、きっと謙虚な形で伝えることが出来ると考えます。  話を手裏剣に戻しますが、そういう試行錯誤だったものですから、溜めを作って捻ったり、うねってはイケナイと頭で分かっていながらでも、あんな投げ方になっていました。 後ろに大きく振り被る投げ方は、一見理に適った投げ方の様に見えますが?実は、そうではありません。 よく見ると体が傾き体重のパワーは左足の裏に逃げて手裏剣には伝わっていないのです。それに実戦では、気配が出過ぎて相手に避けられてしまいますから、全く役に立ちません。武術は命が懸かっていますから、気配が出てはいけないのです!この辺の入口が、スポーツとの大きな違いなのでしょう!しかし、後半になりますと、体は真っ直ぐに立ち、また足を前後させず平行に置き、ワザと投げ難い体勢をとっています。 スポーツ一般常識的には、間違っているのですが、しかし、敢えて投げ難い?使い難い体勢をとることで、自身の持っている潜在的な力!体重という一番の武器を最大限に活用出来たのです。スポーツ科学的な考え方とは真逆ですね!子供達に何時も言っている「遣り難いことは、遣り易く出来る」を証明していると思います。

湖の氷

皆さん、例えば湖で薄氷の上を歩く事を想像して見て下さい。そこに隠れたモノがあります。きっと、誰しも両足に体重が掛からない様にする筈です。体重を浮かせますよね?上手い下手はあっても!笑 無意識に通常歩いている時は、体重の重みは殆ど足の裏から全部地面に逃げています。 普段の生活からは、中々体重を自分の一番の武器と考え捉えること自体忘れがちなことなのですが、実際は一番無理をしなくても、出せる最大の武器なのです。 30キロ、40キロと軽くても、それが例えば「鉄の玉」となって自分に飛んで来たとしたら、多分、何方でも嫌な筈です!しかし、意識的にそれらを相手に伝えようとした瞬間から、質の転換を自ら制御してしまいます。体重を力に変え様とすれば、重みではなく力だけになります。その体重の質を変えない?変える?質や身体機能の根っこから変換しなければなりません。卵が先か?鶏が先か?笑  現在の常識的なモノがある為に、ご説明が可笑しくなりますが、逆の申し上げ方をすれば、無意識を意識的に行うのです。体重の重み「そのまま」の質を保ち力にすると申し上げた方が、シンプルですね!ヤスユキは頭が可笑しくなったと思われてはいませんか?笑 元から可笑しいですからご心配なく*  もう少し噛み砕きますと、腕や足がありますね? その腕一本、足一本の重さを自身で感じられたことはありますでしょうか?腕や足も当たり前の様に胴体に付いていますから気にもなりませんね!ちょっと恐ろしい話ですが、例えば腕や足をノコギリで切り離し、量りに掛ければ、何キロかの重みがあるのは当然ですね!そのモノの重みを如何に上手く使うことが出来るのかが、「術理」=「体の使い方」のヒントなのです。腕ではなく、何キロかの鉄の塊とします。意識変換をすることで、質も変えることが出来ます。 但し、鍛錬してそれが出来る様になったとしても、今度は次々に速く動けるのかが問題です。 体重の重みを利用し、尚且つヒラリヒラリと動くのです!どうやって? 

恐怖心

戦い向かい合えば、恐怖心から自然と力が無意識に入ってしまうものですが、それを乗り越え力を抜く鍛錬をします。素早く動ける為に!素早く動け一瞬で力が出せる様にするには、「力の抜き方」がとても重要だと私は考えています。力は抜いているのだけれども直ぐ最大限の力が伝わる?難しいことですが、出来る様になります。棒手裏剣の前にお観せしています、「三方斬り」は正しくその為の練習です。力を抜かないと素早く動けない!しかし、木刀の威力を出す為には体重を剣に載せ最大限の力を出さなければならない。その最大の力は一瞬の動きの起こりが消えるくらいのスピードが必要です。また、厄介な事はパワーが出れば出るほど次の動きに影響を及ぼし遅くなりますから、そのパワーを、また一瞬で消さなければダメなのです!そうしないと自分の力と力がぶつかり合って動きを鈍くしてしまう!繰り返しますが、力とは面白いモノで、パワーが強ければ強いほど、次の動きの弊害も更に大きくなります。相撲をご覧になれば一目瞭然ですね!立ち合いで、思いっ切り相手に当たろうとした時、身を躱されますと、もう止めることは出来ません。では、どうしましょう?笑  それらを解消する為には、体の各部位を別々に操作し、それらが結果的に一つの目的を果たす様にするのです。手足がバラバラに動く事を恐れてはいけません。最初は体が纏まらなくても、少しづつ段階を追って身体機能が発達し体自体が覚えて行きます。操作性の能力が上がります。寝ていた赤ちゃんが、ハイハイを覚え、立つことが出来る様になり、歩いて行く感じです。そして、体を別々に機能させた上で、更にスイッチの反応や性能を上げ、同時に切り替えられるモノにするのです。スイッチを切ってから入れるのではなく、二つあるスイッチを同時上下に入れ替える作業です。入れれば最大の力が直ぐに出せ、切れば一瞬で消える!そんな体の鍛え方です。 世界の一流選手の中には、この様なことを使っているのではないか?と、プレーを観ていて感じる時もありますが、きっと自然に身に付けられたのですね!練習の中で感性を磨き、人が感じないことや気が付かないことを体で覚え習得して行ったのでしょう!私はそう思います。 教えられて出来るものではない気が致します。だから怪物とか、天才的プレーヤー何て言われているのでしょう!その差は何処にあるのか?

天才的プレーヤー

「天才的」とは何でしょう?私が感じます所、有触れた言葉でしか表現できませんが、それは先ず第一条件として、「本当に自身と向き合える人間」だと思います。自身の体と対話し、ボールやバットとも語り合い、また自身のプレーや相手のプレーを客観的に見つめられ、目で見るモノではなく、心の目で観えるモノを感じられる人間の差だと思っています。 客観的に見られない方は、殆どと言ってよいくらい、「何かのせい?誰かせい?調子が悪かった*」と、事実を作りあげ真実とし逃げ道にしてしまいます。そこで理由を付け「諦め」てしまうのです。私は、子供達に何時も願っています。 「負けた時こそ自分自身をしっかり見つめよう*でも心まで負けるな!それがまた一歩階段を?山をまた一歩登ることになると・・・」心の中で祈っていますが通じているでしょうか?では、一体「心の目」とは何でしょう?サッカーで申し上げますと、ボールを蹴りますね!目で見れば最初はボールを面で捉え、「大体この辺かなあ?」と、蹴ります。しかし、段々練達して行きますと、「ボールを点」で捉える様になって来るのです。ここまで出来れば本当は大したものですが、心の目で観えた時は、「振り抜いた軌跡」が映ります。 具体的で分かり易い一例を挙げたつもりですがどうでしょうか?もっと細部を話しますと、動きながら相手を感じて次を予測する速さや、ボールの流れから一瞬で閃く感性も同じ様なことだと思います。申し上げ方を変えれば「頭で考えていたらダメ&遅すぎる」と言うことですね! 例えが下手ですが、ご理解頂けますでしょうか?やっぱりヤスユキは頭が変?バカ!分かってますって★ 笑 アハハ でも、バカに成れないと突き詰められない?バカでないと誰もしない事は出来ない!バカでないと弱いモノの本当の気持ちを感じられない?バカにならないと自分の執着心から逃れられない?「バカに付ける薬はない!」と、言われますが、私は、よく蚊に刺されて「ムヒ」を塗っています!☠ 意味が違うってば?笑 真面目に戻ります。 

バカ

「馬鹿」と言う字は好きではありません。それは馬と鹿を、それこそ動物をバカにした人間の驕りや傲慢さの表れの様な気がするからです。敢えて漢字は遣いませんが、「バカ」と、「タダのバカ」は違うと思うのです。タダ何も考えず人を当てにしていたり、タダ何でも言われたことをやってれば良いと考えていたり、タダ勝ち負けにしか拘らなかったり、タダ勝負に一喜一憂して終わったりすることが「タダの00」ではないでしょうか?私は、「大バカ者」ですが*笑 表面的で薄っぺらい捉え方、生き方だと思います。可笑しな申し上げ方ですが、「本当のバカ」に成れるとは、「徹すること」「命が懸けられること」「遣り続けること」だと考えます。私には「無謀と思われることを分かっていながら敢えて挑戦する」が加わります!どうですか?大バカ者でしょう★このバカに成れることとは、世俗の損得や不安、心配、納得、安心、安全、許せない?笑 責任、説明、成果、効果・・・などなどの埒外に置かれるモノだと思っています。多分、天才的プレーヤーと言われている選手は、そんなことが出来たからこそ今があるのでしょうね!サッカー選手の中にも、「オレは本当に命を懸けてプレーしている」と、真顔で言う選手のプレーは戦場にいる様な感じで私の心臓もドキドキします。首に物凄い傷がある選手のことです*(テべス選手)この選手はきっと「本当のバカ」になれたのですね*私の大好きな選手、ロベルト・カルロスも同様だと思います。また生き方も尊敬します。レアルの高い年棒を蹴って、ジーコの為にトルコのチームに移籍をしたのですから***



弓の威力は凄まじいモノがあります。鉄兜を射抜いた!との記録も残っていますから、戦国武将はさぞかし脅威だったことでしょう!和弓独特の引き方は、アーチェリーとは違い、体使いと弓が一体となり、最大限の威力を発揮します。 手裏剣と似ています所は、体の使い方と飛び方が本当に不思議で意思があるかの如くに飛んで行きます!飛んで行く途中から何かの力が加わり、よりパワーを増す感じなのです!動画でご覧頂けるるでしょうか?

燕返し

燕返しで有名なのは、何と言っても「佐々木小次郎」さんですね!上から斬って下から上に反す斬り方です。私も中学生の時に、剣道をやっている同級生を相手に授業で戦ったことがありますが、燕返しを受けてビックリした経験があります。竹刀が手から離れ吹っ飛びそうになりました! そして、小手を討たれ一本を取られたのです。それまで、防具を付けたり、武器を持って戦うことが嫌いだった私でしたが、剣道の技を肌で知り!へぇ~大したモノだなあと本当に感心しました。 しかし、負けず嫌いの私は、その場の空気?瞬間で相手を感じ取り、気と気の隙間を衝き逆胴を決めることが出来ました。上手く行き過ぎて自分でもビックリしました!それが、きっと相手に火を点けてしまったのでしょう?その後、同級生の目つきが変わり、乱れ打ちして来ましたから、隙だらけの足を狙い、「スネ~!」と叫び、私は思いっ切り脛を討ったのです☠ ガハハ!剣道に「脛」はない?確かに* でも相手は倒れました* 先生が「バカも~ん!アホか?お前は☠」笑*とおっしゃり、私の反則負けを宣言し終わりました。その同級生は3・4歳から剣道を習っていたらしく、私に胴を決められたことが余程悔しかったと見えて、二度と勝負をしてくれませんでした!タダ脛が痛かっただけかも知れませんが?笑 卒業した後になって聞いたことですが、私には独特のリズムがあって次の動きが読みづらかった?と教えてくれました。その同級生は、私のことを肯定的に言ってくれますが、私が素人なだけで、何をやって来るのか?また、こいつは何時も人とは違って、思いもよらない行動を取るとの先入観から、雑念が生じて隙が出来ただけだと思います!アハハ「脛を討たれたのは生まれて初めてだ!」とも申していました*面目ない*

真剣

剣術や剣道にも、やはり「「基本的な型」がありますけれども、当然、斬り方の型も沢山あります。燕返しもそうですが、稲妻、水返し、山落とし、などなど、切腹の時の介錯の斬り方もその一つなのかも知れませんね?作家の三島由紀夫さんが、自衛隊にクーデターを決起させ様と乗り込み、受け入れられずに「罵声を浴びせられ」 最期は切腹しました。 しかし、介錯する方の腕が悪かったのか?ビビってしまったのか?分かりませんが、二度失敗をして真剣が曲がってしまった為、有段者に交代して三回目にやっと首を落として上げることが出来たそうです。きっと刃筋が通らなかったでしょう?真剣は力があれば斬れるものではありません。力に頼れば力に負けます。その首を落とした刀は「関の孫六兼元」だったと思います。  事件後、関の孫六の刀について関心を持たれたのでしょう?警察の偉い方が関までお越しになり、「関の孫六」について色々尋ねられたそうです。私の知人、関市在住の大先輩もその時同行し、説明させて頂いたと言っていました。 真剣で斬ることは、誰にでも出来そうですが、真二つに斬ることは非常に難しいのです。細かい話ですが、例えば竹刀を握る手の位置と、木刀を握る位置、真剣を握る位置は異なります。真剣で竹刀の様に左手と右手の間隔の隙間が空き過ぎてしまいますと、綺麗に斬れないのです。また、今、真剣の話をしていますが、スポーツも同じで「タダ蹴れる」「タダ打てる」だけではダメだと思います。そう言えば、王選手は、打撃練習に「真剣」を取り入れ練習を行っていたことは有名な話ですね!紐からぶら下げた紙を真剣で切っていました。 あれは中々斬り難いのですが、流石、王選手です。体の使い方や目と勘、動体視力がずば抜けていたのでしょう!私もテレビで観させて頂きましたが、それはそれはお見事でした。 実は、この鍛錬は私も経験があります!三回に一回綺麗に切れれば良い方です。でも、一番最初に挑戦した時は自分でも驚くほど見事に切れたのですよ! 信じられない位でした*無心の境地でした☆あと余り知られていないことは、巻藁を二本置き、一振りで水平に斬るという練習でした。 巻藁と巻藁との間を空け水平に斬ることは、神技に近い技です。王選手は、きっと何時の時代にお生まれになっても、きっと達人に成れたでしょうね!

剣道は剣術?

剣術から剣道に変わり、柔術から柔道に変わりました。スポーツ化されたのです。ルールが細かく決められ、「これをしたらダメ」「これは反則」と言う具合に*本当に勿体無い!問題があれば本質に目を向けることなく、直ぐにルールで縛りたがるのは何なんですかね?シートベルト、マスク、消毒、携帯電話、自転車、ポイ捨て、禁煙、ルールに縛られ生き難い社会を作っています。モラルや規範があれば暗黙の了解の下、誰も言わなくても皆が守れば住み易い、世の中になると思います。話がズレて行き来ましたので戻しますが、剣道や柔道は危険な技や危険と思われるモノまで禁止されています。特に柔道はそうです。戦いなのに、怪我をするからと反則にすれば、それが戦うことになるのでしょうか?タダの「ゲーム」ですね!あっ!剣道や柔道もゲームでしたね*スポーツになっているのですから***特に柔道はオリンピック種目ですから、お家芸で負けたことを、外国の選手の戦い方にクレームを言い「あれは柔道ではない!レスリングだ?」と、言い訳するのは、本当に情けない限りです*倒し合う戦いなのですから、当たり前です。また、ルール変更しますか?笑  剣術の話ですが、ある映画の一場面で、こんなシーンがありました。ある藩に浪人が試合を挑んで来ました。所謂「道場破り」です。そして、腕に覚えのある武士が立ち向かうのですが、次々に敗れて行くのでした。  最後に、その藩で最強の剣士が出て来たのですが、倒された挙句、木刀を踏まれ身動き出来ずにいると、その剣士が「卑怯だぞ」と叫びます? しかし、その浪人は「何が剣術だ!武士なら真剣でやれ!」と、何度も背中を木刀で討ちつけ去って行きました。 命懸けでやるのか?当たっても痛いだけとか、怪我もしないから大丈夫の中では、真の体の使い方は身に付かないと思います。死生観の違いが大き過ぎますから、仕方のないことでしょう*「脛」くらい良いですよね?笑

屁理屈

私も含めてですが、現代病を患っている人間が多いのではないか?と感じています。頭でのみ解ったつもりでいて体験していない?体で感じていないモノまで理解したと思い込んでいます。私は知識には、二通りあるのではないか?と考えます。一つは人から聞いたり、本で読んだり、ネットで調べた?調べたになるか分かりませんが、そして、もう一つは実際に行ったり、係わったりして得たモノです。自分自身の力だけで最初から終わりまで出来なければ「知識を活かし出来た」ことになりません。知識は、なるべく自分の汗を掻き手に入れたいものですね!私は、子供の頃から諸先輩や、先生方から沢山の事を教わりましたが、でも実際に自分が行って見ますと、全く違っていたモノも数々ございました。 また、人間によって感じ方や捉え方の違いが、こんなに幅広くあることも同時に教えて頂けたのだと、私はそう受け止め感謝しています。申し上げるまでもなく、教えて頂けたことの意味が更に深まり理解出来たことも当然ございました。しかし、その前提は、やはり自身で行うことに尽きると思います。物事の本質に触れたいと本気で考えるのなら、体ごとぶつかり自身と向き合うことが必要だと信じています。「教えて貰おう?」 何て思っていては表層的なことを聞いた!観た!で終わりですね*日本の現代人は、頭が良い事に囚われ「頭で考えた!脳が知った!」ことだけを信じて自己の正当性を主張し、人の批判をしています。何処かの社長さんが、「今の時代は、頭が良いこと=ズル賢いことだ!」と述べておられましたが、きっとそんな社会なのですね?情けない*戻しますが、情報や周りの価値観に左右され自身を見失って良いのでしょうか?世の中に振り回されずに生きたいものです。今の頭でっかちの方々は、自身の「観る目」を持たれていない気が致します。また、それに気付くことなく屁理屈を言い続けて生きることの何処に価値があるのでしょう?価値何て無くても良いのですが、誇りを持ち恥を知りたいものです。一瞬の得?優越感を得たことが、一体何になると言うのでしょうか?人生が寂しく萎んでしまいますね* ボランティアで、競技のルール説明に行かさせて頂きますと、そんなのアリエナイだろう?と思われる事を想定して質問したり、ルール上には規定がなくても、「常識の範囲内」のことに対して敢えて堂々と胸を張って発言をされます!笑 そこで感じますることは、人が気付かないと思われることを、一生懸命に何かアラ探しをして言いたいだけではないか? 意地悪な質問をして、こちらが困っている姿を見て満足し、自己主張したいだけではないのか?とも受け取れます。失礼ですが本当に愚問だと思います。 屁理屈を言って人生が豊かになるとは到底思えませんが、そんな時、私は「主催者側に対して沢山のご意見があるのなら、貴方もこのボランティアの仕事を一緒にやり、改善しませんか?」と申しますと、「忙しいからやれない」と返って来ます。私も忙しいのに!笑 口は出すが汗は掻きたくないのです☠ 小さなことに拘っているお姿を拝見して思います事は、死生観の違いはあれど、誰でも死ぬことに変わりありませんから、今一度頭で考えたことを疑って見て、 「気持良く生きて行く為には、何が必要か?」を考えて見ると良いのになあ?つくづく想います。私は、「学ぶ」喜びよりも、「学んだ」喜びを広げたい*汗を掻きながら沢山の冒険をして☆

負け続けた選手

私の同級生に高校の部活で、試合に負け続けた選手がいました。一生懸命に練習をして、真面目に取り組んでいましたが、3年生の最後まで一度も「勝つ」喜びを知ることは無かったのです。でも、その同級生は最後まで「遣り抜きました。」本当に立派でした*同級生は、過去を振り返りこんなことを言います。「オレは、一度も勝つことが出来なかったけど、やって良かったなあ*と、心から思える。どうしてかと言うと、社会に出て色んなことがあるけれど、今まで絶望したことがない!失敗しても、もう一度、もう一回と前向きに考えられるのは、きっと、あの青春時代があったからだろう*」と教えてくれました。人生は人それぞれの道があります。山の登り方も色々で、真っ直ぐ登る人も居れば、切り立った崖を登る人もいます。何方がどうとかは言えません?それは、理屈であり、頭で考えた事に過ぎないからです。 実際、登って見なければ、あれこれ言う資格はないと思いますが、どうでしょうか? 最近は、一般人でも論客や評論家が多過ぎて困りますね*口だけ達者な方は信用出来ません!私も人のことは申し上げられません。自ら気をつけます*

全てに通じる

「自身と向き合う」ことは全てに通じることだと思います。余り沢山の事柄で自身と本当に向き合うことは、難かしいのかも知れませんが、ひとつの事を遣り続ける一念を持ってすれば、全てに通じる何かを悟り、自身で答えを導けるのではないか?と、私の足らない脳ミソで考えるのでした!笑 頭で考えてしまったのですね*ガックリ☠ 武蔵先生も心配していました。戦いのない平和な時代が来ると、頭や言葉で分かった様な「偽物武士」が溢れるだろうと*活躍する選手が出て来ると、直ぐに「サムライ」とか「武士」とかのネーミングを付けたがりますが、今のスポーツ選手はどうでしょうか?カネで動く侍や武士など私は聞いたことがありません。最も恥ずかしいこととされています。真剣を正眼に構え、刀を少し斜めにしますと、刃縁から棟に掛けてが鏡となり自身の顔や姿が映ります*やはり剣の道も自身との葛藤?戦いなのかも知れませんね?恥ずかしい限りです*
 

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