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氣は心
瀬戸弁の話は、面白過ぎますので後に回します。お許し下さい!笑 さて、「氣は心」と言います。最近、この言葉は死語になりつつあるのか余りお聞きしませんでしたが、しかし、先日郵便局に行った時に酒屋のオジサンから私に「氣は心やもんね~」と、おっしゃって頂けたのでした*その訳は、郵便局の駐車場が一杯だったものですから、他の車の通行の妨げにならない様にハザードを点け空くのを待っていましたら、酒屋さんのオジサンが外に出てこられ、私の車を酒屋さんの駐車場に招き入れてくれたのです。ご厚意に甘え、郵便局の用事を済まさせて頂きました。その帰りに、お礼がてら店に立ち寄り缶ビールを数本お頼みしますと、「そんな氣を遣わんでもええのに*ほんやけど氣は心やもんね~」と、笑顔でおっしゃって頂けたのです*瀬戸弁で!笑 久しぶりに、善い心に触れた感じがしました。氣=心 良い言葉ですね!
事務所前のお爺さん
そう言えば、子供会のボランティアで御世話した子供のお爺さんが、よく事務局の私を訪ねて来られて、色々な物を持って来て頂けます。ワラビ、ブドウ、カボチャ、などなど*「孫が世話になったで!」と・・・その返礼をしているつもりはないのですが、庭石をお爺さん一人で移動させようと奮闘している姿を見かねて手伝ったり、コメを裏の小屋に運んであげたりしましたが、「人に施し」をしている自分を見つめながら、太宰さんの「浦島太郎」を思い出しています。太郎が私自身に思えて、カメの一言一言が胸を貫き!言い当てられている様で恥ずかしくなるのでした。人間の話の中には、「危険な領域」と申しましょうか?毒?キワドイ話があると思いますが、正に、カメの話は触れられたくないことばかりで、自身の存在を消し去りたい様な気持ちになります。 原罪と言うのでしょうか?生まれて来たこと自体、罪の様に感じている私にとっては胸を抉られる物語です。この章で書いてしまいますと、次章が困りますので浦島の話はここまでにしておきます!笑
ささやかなこと
よく子供達から手紙を受け取りますが、ささやかな事ほど嬉しいものです。子供達に歳を聞かれて、バカの一つ覚えの様に「23歳だよ☠」と答えると、「お母さんより若い?」と言いビックリしています。本当にお母さん申し訳ありません*40歳も過ぎますと、良いことや幸せが長く続かないことが観えて分かっていますから、心から喜ぶことが少なくなっています。でも、そんな私ですが「ささやかな心や気持ち」は、後から後からジーンと嬉しい気持ちが胸に長く居付いてくれるのです。手紙に、そっと気配りの御配慮がされてあったり、一言が添えてあるだけで、どれだけ救われる気持にさせて頂けたことでしょうか*本当に感謝しています。ありがとうございました。
自殺者が3万4,000人
自殺者が3万人を超え、多分、3万4000人になるだろう*と言われています。豊かな国、日本は物質的には恵まれているのでしょうが、「全てに於いて気持ち」が貧困に喘いでいるのかも知れません*「生きることがとても辛くて、死ぬことの方が楽で選ぶのでしょう?」クレヨンしんちゃんの作者が、お亡くなりになられましたが、私は、そんなことを考えてしまいます。殺伐とした世の中に居場所が無くなったのでしょうか?岩壁の写真は最期の御意志を示された様に思えてなりません*人の死について軽々しく言うものではない!何て世間の方々は申されますが、では、さも重々しく言えば許されるのでしょうか?人間は演ずることが出来てしまう動物です。自分なりの勝手な解釈で、色んな理由をつけて悲しみや思いの丈を想像し膨らまし論ずることの何処が、ご供養になると言うのでしょう?自己満足に過ぎないと思います。死者の想いを忖度することは自由ですが、口に出し公言してよいモノかどうかは別問題だと考えます。勝手に理由を付けて自身の想像力を・・・止めておきます。昔、ある著名な方が亡くなられた時に、久米宏さんが言葉少なに「でも、時は流れて明日は来ますので、次のニュースに行きます*」と伝えられていました。悲しみを想像しても推し量れないことに対して、無闇に発言することを御控えになられたのだと思います。立派な方だなあ*と思いました。実は私の母の姉も自殺しています。理由は、小学校のPTAの役員と中学校の役員を両方してしまい、様々な問題に取り組む内に心が病んで死んでしまいました。 叔母さんは、何でも頼まれると引き受けてしまう性格で、また、人が嫌がることを率先して行い、更に自分が犠牲になるという気概のある人間だったものですから、その性質故、自身を追い詰めて行ったのだと私は思っています。私が幼少の時から中学生まで、家で何時も叱られ味方など誰も居ませんでしたが、唯一「よし!ヤスユキそうしょう*よし!叔母さんがやったる*よし、叔母さんが買ってあげる*」と、言って頂ける人でした*ある日、叔母さんの家に泊まりに行った時に、夕飯の材料を買いに市場に出掛けて行くと叔母さんが、「ヤスユキは、何が食べたい?」と聞いてくれましたから、嬉しくて私は、「カニが食べたい!」と、財布の中身も考えずに言ってしまいました。間髪入れずに母が「あかん!そんな高いもん」と、叱られましたが、「ええ!エエヤン!よし、今日はヤスユキの好きなカニ食べ様な*」と、言ってくれ大きな蟹を持ち帰り、みんなで「美味しい、美味しい」と言って団欒しながら食べた記憶があります。ですから、今でもカニを見掛けますと、叔母さんの顔が脳裏に浮かびます。 叔母さんを想う時、生きることがとても辛くて辛くて、楽になりたかったのだろうなあ?楽になれたのかな?良い所に行けたのかなあ?また何時か会いたいなあ?と、ただただ願い祈っています。人の死は悲しいことに変わりありません*でも静かにそっとしてあげることが、負担を掛けない優しい気持ちではないでしょうか?分かりませんが・・・その記憶が強烈に残っている訳は、「何が食べたい*」何て優しく聞いて貰ったことが無かったからだと思います。きっと、何回もあれば記憶の片隅に追い遣られて消え去っていることでしょう!我儘を言って許され、笑顔で食卓を囲みながら食べた味は忘れないのです。何時までも良い思い出として、私が死ぬまで大切にしたいと思っています*
言葉は記号
体で表現することは自然に出来ても、文章で表現することは非常に難しいですね!特に私の様なバカでは尚更で、想いを伝え切れない、もどかしい気持の連続です。太宰さんの才能の一滴でも頂きたいものです。人を当てにしてはいけませんね*もっと自分を鍛えなければ!でも、言葉にすると気持ちが通じない?言葉にすると何か変?言葉に出来ないことが私にはよくあります。そんな時、そうか!「言葉は記号なんだなあ?」と、シミジミしてしまい無情感に苛むのです。
プラス思考が嫌いな私
悪いことは、誰にでも降り懸かって来ます。そんな時、「プラス思考!プラス思考!」などと言われますが、これが私は嫌いなんです。悪いことは、自分自身の行いが悪くてそうなることもありますが、何もしていなくても、災難は起こるものです。それは仕方のないことですから、素直に現実を受け止め、「ありのまま」受け入れる方が潔いと私は思います。心の病の方に、「頑張って」と言ってはイケナイなどと言われますが、私は、そんなこともないだろう?と感じています。無責任にそんな言葉を掛けるからイケナイだけであって、本来、「頑張って!頑張れ!」は、ここに貴方を応援している味方がいるから忘れないでよ*独りではないんだよ*とのメッセージだと思います。もっとガンバレ!とは言っていません*何でも一括りにしてはいけませんね*「この時には=こうする」と、言うのも現代病の一種ではないでしょうか?答えは無数な筈です。安心したい為に答えを求めるのは危険です。自分で考えなければ責任は持てないですよね? 言葉で慰め様としなくても、気持を込めた「ささやかな事」の方が、どれだけ勇気づけられることでしょう* 「氣は心」 相手に負担を掛けない、「さり気無い行い」ほど有難いモノはありません。太宰さんの乙姫様の様に*** 何処までも許される世界なんてあるのでしょうか?
ささやかな喜び
昨日、Uー12の試合に行って来ました。今回は、公式戦になかなか出場させてあげられなかった子供達を連れて行くことが出来て私はとても喜んでいます。この子供達は、みんな性格の善い子達ばかりで大好きです。小学生の内から、「勝ち」や「上手くなる」ことが何よりも至上命令?宿命の様に育成されている不幸な現状を垣間見る中でも、健全に生きているなあ*と心から嬉しく思います。 私は何時も相手チームの良いプレーには、人目を憚らずに褒めています。 「ナイスプレー」「ナイスキーパー」粘り強い素晴らしいプレーには、「頑張れ!」と、ベンチから声を掛けてしまいますが、「どっちの応援しているの?」などの不平を言う子供は、一人もいません。きっと、「フェア」や「フェアネス」を理解してくれているのでしょう! 意図的に指導しようとは考えていませんが、結果、私の背中を見て何かを感じてくれれば良いと思っています。 何を感じようと子供達本人の自由ですからね!反面教師でも構いません。今回のベンチは、賑やかで微笑みが絶えませんでした!私の冗談やダジャレにも付き合ってくれ大笑いしていました。あるクラウドの子供がビックリする良いプレーをしたものですから、「今のプレーは良かったよ!その前のプレーはもっと良かった!」と褒めた後、小さい声で、「でも、もっと良いのは先生の顔だけど☠」と言うと、大爆笑の渦でした!「アリエネ~」と呆れながら*ガハハ 試合が終了しますと、相手チームが挨拶に来てくれますが、その前の試合でも「猪木に似てる」と、笑いながら握手をしてくれましたが、その後の小牧チームの子供達も「猪木だ」「猪木に似てる」と皆嬉しそうです。負けたにも拘わらず、皆笑顔でハイタッチをしてくれたり、「猪木のマネをして~」と、せがむものですから、「元気ですか!」とやると、「声まで似てる~!!!」と大喜びでした。 正直に申し上げますと、私は、クラウドが勝った時、必ず相手チームのことが気になってしまい、心の底から全て喜んだことがありません。負けたのを理由に走らされていたり、延々と説教をされていたり、怒鳴られている姿を試合の度に見ているものですから、そんな気持ちになるのでしょう* 負けた時は、「全て監督の責任」で良いではないですか!何時もそう思います。でも、今回の最後の試合は、心から相手チームのことも含め全て喜びになりました。初めての経験です。「本当にありがとう~!」☆ 試合には、最後まで出て来ませんでしたが、その相手チームの中に小さな子供で片目が少し不自由な選手がいました。 試合に出ていないせいか、少し寂しそうに感じましたから、他の子供達よりも一層力強く握手をして、「この次は、絶対出て来いよ!頑張れ!負けるな!」と、言葉ではなく願いと想いを込めて握手したのです。言葉に出せば負担になるかも知れませんから「氣と心」で叫びました* この次は、元気に戦う姿が見たいものです。 顔は忘れません*クラウドの試合前の掛声「行くぞ~!1・2・3 ダッー」は、縁起が好いとやっていました!笑 みんな大爆笑です*「氣は心」 古き良きモノは受け継ぎ、また次世代に伝えて行く義務や責任が、大人全てにあると私は想いますので、敢えて旧漢字を用いました。幸せや希望とは、大きな事を望みがちですが、その分不幸も大きくなる気が致します。ささやかな事や一瞬の喜びを感じる力こそ幸せや希望に繋がるのではないのでしょうか? 終わり
瀬戸弁の話は、面白過ぎますので後に回します。お許し下さい!笑 さて、「氣は心」と言います。最近、この言葉は死語になりつつあるのか余りお聞きしませんでしたが、しかし、先日郵便局に行った時に酒屋のオジサンから私に「氣は心やもんね~」と、おっしゃって頂けたのでした*その訳は、郵便局の駐車場が一杯だったものですから、他の車の通行の妨げにならない様にハザードを点け空くのを待っていましたら、酒屋さんのオジサンが外に出てこられ、私の車を酒屋さんの駐車場に招き入れてくれたのです。ご厚意に甘え、郵便局の用事を済まさせて頂きました。その帰りに、お礼がてら店に立ち寄り缶ビールを数本お頼みしますと、「そんな氣を遣わんでもええのに*ほんやけど氣は心やもんね~」と、笑顔でおっしゃって頂けたのです*瀬戸弁で!笑 久しぶりに、善い心に触れた感じがしました。氣=心 良い言葉ですね!
事務所前のお爺さん
そう言えば、子供会のボランティアで御世話した子供のお爺さんが、よく事務局の私を訪ねて来られて、色々な物を持って来て頂けます。ワラビ、ブドウ、カボチャ、などなど*「孫が世話になったで!」と・・・その返礼をしているつもりはないのですが、庭石をお爺さん一人で移動させようと奮闘している姿を見かねて手伝ったり、コメを裏の小屋に運んであげたりしましたが、「人に施し」をしている自分を見つめながら、太宰さんの「浦島太郎」を思い出しています。太郎が私自身に思えて、カメの一言一言が胸を貫き!言い当てられている様で恥ずかしくなるのでした。人間の話の中には、「危険な領域」と申しましょうか?毒?キワドイ話があると思いますが、正に、カメの話は触れられたくないことばかりで、自身の存在を消し去りたい様な気持ちになります。 原罪と言うのでしょうか?生まれて来たこと自体、罪の様に感じている私にとっては胸を抉られる物語です。この章で書いてしまいますと、次章が困りますので浦島の話はここまでにしておきます!笑
ささやかなこと
よく子供達から手紙を受け取りますが、ささやかな事ほど嬉しいものです。子供達に歳を聞かれて、バカの一つ覚えの様に「23歳だよ☠」と答えると、「お母さんより若い?」と言いビックリしています。本当にお母さん申し訳ありません*40歳も過ぎますと、良いことや幸せが長く続かないことが観えて分かっていますから、心から喜ぶことが少なくなっています。でも、そんな私ですが「ささやかな心や気持ち」は、後から後からジーンと嬉しい気持ちが胸に長く居付いてくれるのです。手紙に、そっと気配りの御配慮がされてあったり、一言が添えてあるだけで、どれだけ救われる気持にさせて頂けたことでしょうか*本当に感謝しています。ありがとうございました。
自殺者が3万4,000人
自殺者が3万人を超え、多分、3万4000人になるだろう*と言われています。豊かな国、日本は物質的には恵まれているのでしょうが、「全てに於いて気持ち」が貧困に喘いでいるのかも知れません*「生きることがとても辛くて、死ぬことの方が楽で選ぶのでしょう?」クレヨンしんちゃんの作者が、お亡くなりになられましたが、私は、そんなことを考えてしまいます。殺伐とした世の中に居場所が無くなったのでしょうか?岩壁の写真は最期の御意志を示された様に思えてなりません*人の死について軽々しく言うものではない!何て世間の方々は申されますが、では、さも重々しく言えば許されるのでしょうか?人間は演ずることが出来てしまう動物です。自分なりの勝手な解釈で、色んな理由をつけて悲しみや思いの丈を想像し膨らまし論ずることの何処が、ご供養になると言うのでしょう?自己満足に過ぎないと思います。死者の想いを忖度することは自由ですが、口に出し公言してよいモノかどうかは別問題だと考えます。勝手に理由を付けて自身の想像力を・・・止めておきます。昔、ある著名な方が亡くなられた時に、久米宏さんが言葉少なに「でも、時は流れて明日は来ますので、次のニュースに行きます*」と伝えられていました。悲しみを想像しても推し量れないことに対して、無闇に発言することを御控えになられたのだと思います。立派な方だなあ*と思いました。実は私の母の姉も自殺しています。理由は、小学校のPTAの役員と中学校の役員を両方してしまい、様々な問題に取り組む内に心が病んで死んでしまいました。 叔母さんは、何でも頼まれると引き受けてしまう性格で、また、人が嫌がることを率先して行い、更に自分が犠牲になるという気概のある人間だったものですから、その性質故、自身を追い詰めて行ったのだと私は思っています。私が幼少の時から中学生まで、家で何時も叱られ味方など誰も居ませんでしたが、唯一「よし!ヤスユキそうしょう*よし!叔母さんがやったる*よし、叔母さんが買ってあげる*」と、言って頂ける人でした*ある日、叔母さんの家に泊まりに行った時に、夕飯の材料を買いに市場に出掛けて行くと叔母さんが、「ヤスユキは、何が食べたい?」と聞いてくれましたから、嬉しくて私は、「カニが食べたい!」と、財布の中身も考えずに言ってしまいました。間髪入れずに母が「あかん!そんな高いもん」と、叱られましたが、「ええ!エエヤン!よし、今日はヤスユキの好きなカニ食べ様な*」と、言ってくれ大きな蟹を持ち帰り、みんなで「美味しい、美味しい」と言って団欒しながら食べた記憶があります。ですから、今でもカニを見掛けますと、叔母さんの顔が脳裏に浮かびます。 叔母さんを想う時、生きることがとても辛くて辛くて、楽になりたかったのだろうなあ?楽になれたのかな?良い所に行けたのかなあ?また何時か会いたいなあ?と、ただただ願い祈っています。人の死は悲しいことに変わりありません*でも静かにそっとしてあげることが、負担を掛けない優しい気持ちではないでしょうか?分かりませんが・・・その記憶が強烈に残っている訳は、「何が食べたい*」何て優しく聞いて貰ったことが無かったからだと思います。きっと、何回もあれば記憶の片隅に追い遣られて消え去っていることでしょう!我儘を言って許され、笑顔で食卓を囲みながら食べた味は忘れないのです。何時までも良い思い出として、私が死ぬまで大切にしたいと思っています*
言葉は記号
体で表現することは自然に出来ても、文章で表現することは非常に難しいですね!特に私の様なバカでは尚更で、想いを伝え切れない、もどかしい気持の連続です。太宰さんの才能の一滴でも頂きたいものです。人を当てにしてはいけませんね*もっと自分を鍛えなければ!でも、言葉にすると気持ちが通じない?言葉にすると何か変?言葉に出来ないことが私にはよくあります。そんな時、そうか!「言葉は記号なんだなあ?」と、シミジミしてしまい無情感に苛むのです。
プラス思考が嫌いな私
悪いことは、誰にでも降り懸かって来ます。そんな時、「プラス思考!プラス思考!」などと言われますが、これが私は嫌いなんです。悪いことは、自分自身の行いが悪くてそうなることもありますが、何もしていなくても、災難は起こるものです。それは仕方のないことですから、素直に現実を受け止め、「ありのまま」受け入れる方が潔いと私は思います。心の病の方に、「頑張って」と言ってはイケナイなどと言われますが、私は、そんなこともないだろう?と感じています。無責任にそんな言葉を掛けるからイケナイだけであって、本来、「頑張って!頑張れ!」は、ここに貴方を応援している味方がいるから忘れないでよ*独りではないんだよ*とのメッセージだと思います。もっとガンバレ!とは言っていません*何でも一括りにしてはいけませんね*「この時には=こうする」と、言うのも現代病の一種ではないでしょうか?答えは無数な筈です。安心したい為に答えを求めるのは危険です。自分で考えなければ責任は持てないですよね? 言葉で慰め様としなくても、気持を込めた「ささやかな事」の方が、どれだけ勇気づけられることでしょう* 「氣は心」 相手に負担を掛けない、「さり気無い行い」ほど有難いモノはありません。太宰さんの乙姫様の様に*** 何処までも許される世界なんてあるのでしょうか?
ささやかな喜び
昨日、Uー12の試合に行って来ました。今回は、公式戦になかなか出場させてあげられなかった子供達を連れて行くことが出来て私はとても喜んでいます。この子供達は、みんな性格の善い子達ばかりで大好きです。小学生の内から、「勝ち」や「上手くなる」ことが何よりも至上命令?宿命の様に育成されている不幸な現状を垣間見る中でも、健全に生きているなあ*と心から嬉しく思います。 私は何時も相手チームの良いプレーには、人目を憚らずに褒めています。 「ナイスプレー」「ナイスキーパー」粘り強い素晴らしいプレーには、「頑張れ!」と、ベンチから声を掛けてしまいますが、「どっちの応援しているの?」などの不平を言う子供は、一人もいません。きっと、「フェア」や「フェアネス」を理解してくれているのでしょう! 意図的に指導しようとは考えていませんが、結果、私の背中を見て何かを感じてくれれば良いと思っています。 何を感じようと子供達本人の自由ですからね!反面教師でも構いません。今回のベンチは、賑やかで微笑みが絶えませんでした!私の冗談やダジャレにも付き合ってくれ大笑いしていました。あるクラウドの子供がビックリする良いプレーをしたものですから、「今のプレーは良かったよ!その前のプレーはもっと良かった!」と褒めた後、小さい声で、「でも、もっと良いのは先生の顔だけど☠」と言うと、大爆笑の渦でした!「アリエネ~」と呆れながら*ガハハ 試合が終了しますと、相手チームが挨拶に来てくれますが、その前の試合でも「猪木に似てる」と、笑いながら握手をしてくれましたが、その後の小牧チームの子供達も「猪木だ」「猪木に似てる」と皆嬉しそうです。負けたにも拘わらず、皆笑顔でハイタッチをしてくれたり、「猪木のマネをして~」と、せがむものですから、「元気ですか!」とやると、「声まで似てる~!!!」と大喜びでした。 正直に申し上げますと、私は、クラウドが勝った時、必ず相手チームのことが気になってしまい、心の底から全て喜んだことがありません。負けたのを理由に走らされていたり、延々と説教をされていたり、怒鳴られている姿を試合の度に見ているものですから、そんな気持ちになるのでしょう* 負けた時は、「全て監督の責任」で良いではないですか!何時もそう思います。でも、今回の最後の試合は、心から相手チームのことも含め全て喜びになりました。初めての経験です。「本当にありがとう~!」☆ 試合には、最後まで出て来ませんでしたが、その相手チームの中に小さな子供で片目が少し不自由な選手がいました。 試合に出ていないせいか、少し寂しそうに感じましたから、他の子供達よりも一層力強く握手をして、「この次は、絶対出て来いよ!頑張れ!負けるな!」と、言葉ではなく願いと想いを込めて握手したのです。言葉に出せば負担になるかも知れませんから「氣と心」で叫びました* この次は、元気に戦う姿が見たいものです。 顔は忘れません*クラウドの試合前の掛声「行くぞ~!1・2・3 ダッー」は、縁起が好いとやっていました!笑 みんな大爆笑です*「氣は心」 古き良きモノは受け継ぎ、また次世代に伝えて行く義務や責任が、大人全てにあると私は想いますので、敢えて旧漢字を用いました。幸せや希望とは、大きな事を望みがちですが、その分不幸も大きくなる気が致します。ささやかな事や一瞬の喜びを感じる力こそ幸せや希望に繋がるのではないのでしょうか? 終わり
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