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私は、子供の時から、どうしても答えが見つからない大きな疑問があります。それは、「なんで人間は、人を批判するのだろう?」と言うことです。 今の時代は、正に「批評批判社会」になっていませんか?何にでも首を突っ込み批判する!口に出さないと気が済まない。「不安だからどうしてくれる?心配だからこうして?納得行かないから如何にかしろ?ケガをすれば誰かの責任?矢ッ場ダムは中止するな!笑」などと、問題を人間だけに求めます。その裏側にあるモノや構造的なモノには目は向けられません。本音は自分本位のものばかりです。ニュースを観ていましても、挨拶と同じくらいよく聞きます!笑 依存傾向が強くなり、過剰な人権意識を求めるが故に、不特定多数の方の意見を求め、都合の良い考えと思惑が一致すれば国民の声として取り上げています。身勝手な考えでも、二人、三人と数が増えれば時代の流れとなり通ってしまう!ですから、どんな手段を講じても多数派になることを目的とします。きっと多数派になれば怖くはない?その中の一員なのですから*また、何でも涙を流して訴えれば、大衆に支持され思い通りの解決策を得られ易いという遣り方が、私にはどうも不思議に感じてなりません。 当然、その中には「批判」が沢山入っています。ヤッツケル相手が明確になれば、味方も募り易いのでしょう!更に「肩書き」も攻撃対処です。直ぐ、肩書きだけで判断し膨らませてクリーンなイメージを持ちますが、学校の先生や警察官、或いはスポーツマンにだって悪い人も居れば、汚いことをする者も当然いるのです。今に始まったことではありません* 日本社会は肩書き次第で簡単に信じ込んでしまう性質なのでしょうか?とても安易で短絡的です。今現在、不祥事が増えた様に思われているかも知れませんが、私は、きっと不祥事何て質は違うのかも知れませんが、今も昔も同じくらいあったと思っています。しかし、現代の様に表沙汰にならなかった訳は、一度の過ちや魔がさしたことに対して寛容な解決を図ったり、穏便に処置して立ち直させる機会を与えて来たからではないのでしょうか?人間味のある優しさが感じられます。そのことに対しての評価は分かれることもあるでしょう?しかし、過ちを犯すのが人間だと融通を効かせてた上で、より良い人間社会を築いていたのだと思います。排除の論理ではなく、知恵を絞って許し合いながら生きようとしたのかも知れませんね* 但し、現在は、共通の敵には無慈悲に寄ってタカって虐めます。悪いことは悪いのだと社会的な制裁を加えようとしているのでしょうか?集団とは恐ろしいモノです。本当は、悪くない人まで極悪非道人にしてしまいかねません。大変な国になりました。こんなことが子供達にも及びはしないかと、とても心配しています。クラブでも、少しそんなことがあったものですから憂いています。きっと子供達が生き難いでしょうね*大人でも間違いは起こしますから、子供なら尚更ですよね!今、間違いを沢山経験し学んでおかなければ大人になったら大変だと思います。私なんぞは間違いが歩いて居る様なモノです☠ そこで浦島太郎の話ですが!笑
浦島太郎
浦島太郎も「人は、何故お互い批評し合わなければ、生きて行けないのだろう?」と、考えていました!太郎は正に太宰さん自身だと思います。太宰さんも私と同じ疑問を持たれていたのかと、感じられただけで嬉しく思いました。人には、その人の生き方があります。迷惑を掛けない様に生きていても、こうだ!ああだ!と言われるのは、どうしてでしょうか?太郎は、こう述べます。「砂浜の萩の花も、這い寄る小蟹も、入江の鴈も、何もこの私を批評しない。人間も須くあるべきだ。人は、おのおの生きる流儀を持っている。その流儀をお互い尊敬し合って行くことが出来ぬものか。」と・・・批評が嫌いな私でも、カメの言うことは本質を物語り頭が下がります。でも批評をしてしまう!この章の前文でも、お分かりになります様に批評のオンパレードです*笑 批評が嫌いなのに批評する?自分のモノだけは批評じゃあないと思い込んでいます。本当に大バカ者です。 自分自身これに気が付かされても、まだ、「このブログを書いているから、心の奥底に閉じ込めてある色々な批評が出て来るだけであって、本来私は、口には出していないよ!」と、カメに言い訳するのでした*情けない。人間は、生きる故に拘りを持ち、不平不満を簡単に唇に乗せて愚痴を溢してしまいます。また、志を持って取り組んでも努力し叶わないと諦め悔やんだりしますが、乙姫が弾く琴の曲「聖諦」は次元の違うモノです。自分の小さな拘りや執着心、欲などを超越した心を、きっと、さり気無く奏でているのでしょう* 乙姫様は、一度も「言葉」は遣いませんでしたが、その分、太郎に様々なことを深く考えさせてくれました。 その中で深く共感しましたのは、「人の持て成し方」です。持て成されることや、持て成すことも、余り得意ではない私にとっては、これが本当に持て成す意味なんだなあ!と気付かされました。持て成すとは、気を遣わせない様に自由に食べて貰い、自由に遊んで頂き、自由に寝て貰う。こちらが気を遣い、また気に掛ければ、その分相手に負担を掛ける事にもなるのです。何処までも自由に!何処までも許す!それこそが本当に、「持て成す」と言う優しさなのだと教えられました。もうひとつ私の胸に沁みた件がありました。カメは言います。「好きなのは、理屈ではない」と、貴方に助けて貰ったから好きとか、貴方が背負っている肩書きが好きだとか、そんなものでは無い!「ただ、ふっと好きなんだ*」あなたと一緒に遊びたいだけなんだ。陸上の生活は騒がしい!お互い批評が多過ぎるよ*会話全てが、人の悪口か、自分の広告だ!私も時々陸に上がって来たお陰で、悪影響を受け批評を口にする様になってしまったと思いながらも、この批評癖は止められぬ味があることが分かった! 悪い癖を覚えたものです。文明病(現代病)の一種ですかね~★ 本当にカメさんのおっしゃる通りではありませんか?参りました☆人間は自身が見えないのです。しかし、見えたと思うことは、勝手に思い描いたり、決め付けたがります。例えば、今台風が来ていますが、10年に一度と言われる位の大型の台風と言われていますよね!でも、私は全く信じていません。何故なら、では5年後には、来ないと言う保証は何処にあるのでしょうか?屁理屈と言われても仕方ありませんが、何十年に一度とか、10年に一人現れる逸材だとか?マスコミや大衆が飛び付きそうな事を言う「飾り言葉」に過ぎないと何時も冷めた目でお聞きしているからに他なりません。みんなウソだと思います。森羅万象と言うではありませんか! 人間の知り得たことなど高が知れているのです。浦島の話の中でも海の中で火が燃えていることが信じられなかったり、山だと思えば真珠だったり、道だと思えば廊下だったりして、人間が持つ固定観念や既成概念から、太郎も中々抜け出せないでいました。想像を遥かに超えた所に自然や宇宙はあります。それを何十年に一度などと、何故自信を持って言えるのでしょうか?人間の頭の方が私には余程不思議なのです。人間は「心乱判笑」です!笑 人間は言葉を遣います。言葉によって気持ちを動かされてしまいがちです。また、言葉によって人を動かそう?操ろうとしたりもします。太郎はカメに聞きました。「乙姫様は、何時もあんなに無口なのか?」と・・・そこでカメはこう答えました。「言葉と言うモノは、生きている事の不安から生まれたものだ!喜びの言葉にさえ、イヤらしい工夫が施されている。乙姫様はそんなことはしない*」と諭したのです。私自身も自分の言葉に苛むことは沢山あります。「ウソ」を言って誹謗中傷をする人間に腹を立ててしまい良心を見失うこともありました。きっと不安がそうさせたのかも知れませんね?聖諦が私にあれば、そんなことには惑わされなかったことでしょう*太郎が竜宮城を去る時に、乙姫様から玉手箱ではなく綺麗な二枚貝をお土産に渡されました。そして、カメから「それは開けない方が良い」と教えられます。しかし、開けない方が良いと言われれば開けたくなるのが人間です。それも乙姫様から許されている*年月は人間の救いである。忘却は人間の救いである。遠く想えば、悪い事も良い思い出として移り変わり、聖締の意味も理解出来るのかも知れません。めでたし*めでたし*
お伽草紙
お伽話は室町時代に作者不明で流布された物語りとお聞きしています。簡単で幼稚な上、短い物語ですから広く伝わったのでしょう?しかし、太宰さんの様に調査したり、想像力を働かせれば、大人でも楽しめ「人間を知る」身近な物語にもなるのですね!私は、大人が読む童話と言う本も何冊か持っていますが、それはそれは面白いのです。大人であっても、子供の儘の自分に気が付かされたり、打算的な大人の愚かさが浮き彫りになって恥ずかしくもなります。カチカチ山の狸の話は残酷ですね!でも、そのことが返って昔話の良さを感じさせてくれるのは何故でしょう? 今の時代の様に変に飾ったり、大袈裟な表現が遣われてないからかも知れません*
川の死
太宰さんは、何故水に拘ったのか?不思議に思っています。水の中にとても綺麗なモノが見えていたのでしょうか?また、罪を償う場所をどうして水の中に求めたのでしょうか?察することは出来ませんが、入水自殺を思い浮かべますと、どうしても竜宮城の話が頭に過ぎります。それとも砂金を探しに逝ったのでしょうか* そう言えば太宰さんを題材にした映画が出来たそうですから観てみましょう!新しい事が何か分かるかも知れません*
人間模様と心もよう
暗い話が続きますがお許し下さい。先日、深夜?笑 伊藤敏博さんの「さよなら模様」と言う歌をギターで弾いていました。中学生の頃には感じなかった歌詞の意味がジーンと伝わって来て良い歌だなあ*と、改めて分かりました。「白い壁に張り付いた~冬枯れ蔦の~ひび割れ模様~心の中に広がって~言葉捜せない~」 大人にならないと、こういう歌詞の意味は理解出来ないのだなあ*良い詩だなあ☆とシミジミ感じます。 でも陽水さんの「心もよう」の「さみしさのつれづれに~」は、未だに何となくしか理解出来ていません。何故こんな話をしたのかと申しますと、心=水 水=心 心や水はつかまえた!観えた!と思っても手の中にはありません*また変わりゆくものです。水面に顔を映せば心が見える気も致します。そんなことからインスピレーションが働いたのです。ただそれだけでした!笑 人間が係わりを持つことで、自身の心と向き合い、相手の見えない心を知ろうとする!私は、少し向き合うことが足らなかったのでしょう*人間模様、心もよう、さよなら模様、言葉だけではない模様を描きたいものです。太郎はカメに言いました。「私は自分を孤独だと思っていましたが、乙姫様を見て今までの気取った生活が恥ずかしくてならないのです。」と言うと、カメは「あの方は、何も孤独じゃありませんよ!平気なものです。野心があるから孤独なんて事に病むので、他の世界のことなんか問題にしてなかったら百年千年一人でいたって楽なものです。批評が気にならない者にとってはね*」と・・・人間模様?心もよう?模様?模様のない透明な心なのかも知れませんね?乙姫様は***
傘がない
井上陽水さんの「傘がない」と言う曲は「都会では~自殺する若者が増えている~今朝来た新聞の片隅に書いていた~」こんな歌詞から始まります。もう、30年も前からこんな事が叫ばれていました!経済が発展して豊かになっても、減るどころか増え続けています。人権、民主的、平等、自由、情報公開、権利主張をして、核家族化が進み、個人個人を重要視し過ぎるする故に、複雑で難解な問題を生み出しているような気が致します。情報は、人間の知りたいと言う欲求を満たしてくれるのかも知れませんが、知ってることが返って逆に作用することもあります。知らぬが仏とも申します様に、知らないことの方が潤滑に行くこともあるのです。 過度な情報ほど、無闇に首を突っ込む人間を生み出すのでしょう? 知る権利を主張することは悪いことではないのですが、全てを知ってどうするのかが問われます。自分が知らされていないことは、排斥されている様に感じるのでしょうか?でも、その情報さえ操作されているのかも知れません。 権利主張をするのなら、責任も負わなければなりませんが実態はどうでしょうか? 様々な説明会と称するモノに参加要請を受け出て参りましたが、質問事態、「それを聞いて何をしたいのか?知って何になるのだろう?」と、思われることばかりで途中で退席したこともありました。不安だから情報を求め、説明者側に不平不満をぶつける?そんな遣り取りに無力感を感じると共に、人間自身が糸を雁字搦めにして、より複雑且つ陰湿な関係を作り出している様にさえ感じられました。「ああ言えば、こう言う」の繰り返しの連続をすれば、精神的に病むのは目に見えています。 何故、もっと生産的な話が出来ないのでしょうか?愚痴っぽくなり恐縮ですが、今を嘆いても始まりません。 次世代を担う子供達には、そんな風になって欲しくはない!もっと大らかで、お互いを尊重出来る様な人間になり、問題を大局的に解決する大人になって欲しいと思います。 その為には、どんなことが私達に出来るのかを模索したいと思います。小さなことしか出来ませんが、「日々の小さな語り合い」を大切にしながら明るい未来を創造したいものです。昔話も良いかも知れませんね!「むかし、むかし」と言っただけで、子供達の目が輝くのですから*どうでも良い話ですが、私は、この歌を中学3年生の文化祭で唄いまして、沢山の聴衆から割れんばかりの拍手を受けた思い出があります。 何故その時に、この選曲をしたのか自分でもよく分かりませんが、思春期の盛りですから様々な将来に対する不安や、社会に対する何か鬱積したモノが、「どうにも出来ない?」「どうにもならない!」モドカシイ感情として爆発させたかったのかも知れませんね*「冷たい雨が~僕の目の中に降る~君の事以外は~何も見えなくなる~それは良いことだろう~行かなくちゃ~君に会いに行かなくちゃ~雨に濡れて行かなくちゃ~」と、絶叫したのです*
東へ西へ
これもどうでもよい話しですが、この曲は私が中学1年生の時、初めて人前で唄った歌です。大好だった音楽の先生の前で緊張の余り、声が出なくなったことを昨日のことの様に覚えています。 まだオボコかったのですね!笑 私の歌に呆れて翌年お嫁に行ってしまいました*笑 確か四日市に嫁がれましたので「西」の方へ!笑 「美音先生、お元気ですか?先生が幸せなことを心から願っています*」 この「東へ西へ」と言う歌も陽水さんの曲ですが、色んな自己の不純?笑 不純なのは私だけでした!自己の矛盾や社会の矛盾は沢山あるけど、何でも良いからとにかく「だからガンバレ~みんなガンバレ~月は流れて東へ西へ~」と歌います。子供達に、この歌を聞かせますと、「がんばれ~みんながんばれ~」このフレーズが耳から離れない見たいで口ずさみます*世代を越えた何かを訴える力がこの歌にはあるのでしょう!私も頑張ります。そう言えば前述しています、太宰治さんの映画「ウ”ィヨンの妻」ですが、美音(よしね)先生も音読みで読めば「ビオン」ですね!奇遇です☆何かのご縁を感じます。そう思うのは、多分私だけですね!笑 終わります。
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