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数年前に購入した本を、読み返していましたら、今私が悩み直面していることの解決策が得られる様な気がして来ましたので、それに沿って話させて頂きます。本て本当に素晴らしいですね! 駄洒落ではありません*笑 何となく頭に思い描いていたり、ぼんやりとしか解らないことが、自身の考えと照らし合わせながら創造して行けます。
人間は動物
時々、子供達に話をしている中で「人間は動物ですから~」と言うと「えっ~動物じゃあない!」との声が返って来ます。間違いなく人間は動物の一種です!笑 こんなに小さい子供達の中にも、人間至上主義が芽生えているのでしょうか?大自然の中に身一つで入っていけば、人間様が一番偉くないことは直ぐに分かります。私は、いつも野生動物の方が人間よりも偉いと思っています。何故なら、それは自分の子供に期待を懸けたり、見返りを求めて老後の面倒を見て貰おうとは考えないからです。これだけしてやったのに!とか、これだけしたから結果を出せ!何て言わずに、だた一生懸命育てるだけですよね*この仕事をしていますと、よく子供の将来の可能性などを、お聞きして下さる保護者様がお見えになりますが、それを聞いて何をなさろうとしているのでしょうか?他の動物にそういう親はいません。 時々色んな場面での言動をお聞きしていますと「投資でもしている気持になってはいませんか?」と尋ねて見たくなる時もあります。子供の人生は子供のモノではないのでしょうか*野生動物達は、狩りの仕方や生きて行く知恵や術を教え、そして大人になる時期が来ると、非情なまでに追い出し自立を求めます。 しかし、人間の親は子供を縛り、身勝手な期待を懸け、更に自身の思いと結果が違えば、無情にも取り上げてしまうのです。本当に悲しい*最近お聞きした話ですが、愛知県のある有名クラブチームの試合中、保護者のお父さんがご子息にあれこれと指示を出していましたら突然、監督さんに「黙っとれ!」と怒鳴られお叱りを受けてしまったそうです。私の場合は、皆さんの手前もありますので、先ず目で訴え、それでもご理解頂けない時には、そっと小さな声でお伝えする様に気をつけているつもりです。正しいからと言ってどんな方法でも善いとは限らないと思います。その監督さんは、きっと立派な方でしょうから、その前から色々あって堪忍袋の緒が切れたのかも知れません? 最近こういった類の話をよく耳にします。 これも本当に残念なことですね* 親の言うことを聞きプレーして、子供が楽しい筈がないのは分かっているにも拘わらず、勝ちたいばかりに指示を出してしまうのでしょう?それとも監督に成りたいのでしょうか?はたまた、その行為によって親の威厳を示したいのでしょうか?どちらか分かりませんが、自分で考え判断してこそ楽しいのに、それを奪ってしまうとは本当に勿体無い。学校のテストの時に、親が横にいて答えを教え「100点取れた」と喜んでいるに等しいことと思います。間違いを許されない選手は、何時失敗の経験が出来るのでしょうか? 成長は失敗の繰り返しから生まれます。訳が解らないまま、親の指示通り行い勝っても、本人の為には成り得ません。勝った小さな喜びだけで終わってしまいます。もし、野生動物がそういう人間の現状を目の当たりにしたら何と言うでしょうか?「愚か者だニャ~」「子供が可哀想だワン」とか言いませんかね!笑 4年位前から、試合の規則も段々厳しくなり、保護者による指示がありますと監督が退場処分を受ける様になってしまいました。こんな規則が出来てしまうのも、今の社会を物語っているのかも知れません* オランダの英雄、ヨハン・クライフさんの子供は乗馬をしているそうですが、自身の子供に対して、一切口出しはしないそうです。 多分、それは「明るく元気に育ってくれれば良い」という位に大きな目で見ているからなのでしょう* クライフさんの本を拝読させて頂きますと、よく解ります。 スポーツとは「遊び」遊びとは、自由です。自由とは言い換えれば「主体性」だと私は考えます。 自分の「やりたい様に出来る」から何時までも遊んでいられるのでしょうし、決して飽きることはありません。 お腹が空いたり、日が暮れ帰らないと叱られるから慌てて家路に着くのだと思います。スポーツも一緒で、幼児や小学生の子供が途中で「ツマラナイ」から辞めてしまうのは、全て指導者の責任です。スポーツ=遊びの良さを忘れ、コーチの力量を誇示することに囚われ、工夫もない練習や、成果が直ぐ上がる単調なメニューの繰り返しから、ドロップアウトさせてしまうのです。 親の強制退会も一部あります。子供達は何も、体に良いからとか、社会性が身に付くとか、挨拶が出来る様になるからとの理由でスポーツを始めるのではありません。それこそ結果として、知らず知らずの内に培われて行くだけのことなのです。 応援の仕方や声援についても少し触れますと、ドイツの親達は「いいぞ~」「もう一度」「良いプレーだ」「シェーン!シェーン!」と声援を送り、日本では、「前に行け」「下がれ」「そこに居れ」「離れろ」「違うだろう」です。どちらの応援で子供達が伸び伸びプレー出来るのか?一目瞭然ですね*
子供は所有物ではない
暗い話題で恐縮ですが、自殺と言う問題は世界中に沢山起こっています。素朴な疑問ですが、外国の自殺と日本の自殺に違いはあるのでしょうか?将来を悲観したり、絶望の淵に追いやられたり、様々な要因が考えられますが、無理心中に絞って話をしますと、こんな興味深いことを聞いたことがあります。 欧米では、親が子供を道ずれにすることは少ないそうですが、日本ではよくあることです。何故でしょうか?すみません。この先を書き込もうか悩んでいます?迷った時は止めて置きます。ブログはモノローグ、独白ですからより謙虚にならないといけないですね*好んでこのブログを書いている訳ではありませんが、いちスポーツ指導に携わっている人間として、その近況や身近で感じたことをお伝えすれば、何かお役に立てる様な気がする?との目に見えない小さな貢献がしたいだけなのです。単なるマスターベーションに過ぎないかも知れません*
遊び
誤解を恐れずに申し上げれば、遊びは「騙し合い」です。大人が描く様な何時も仲良く笑ってばかりの遊びは本当の遊びではないと私は思います。言葉は悪いのですが、騙すとは、駆け引きやフェイントをかけて相手を出し抜きながら、またその上を行こうとする繰り返しなのです。 相手もまた考え、裏の裏を掻いて仕掛けて来るでしょうし、それをこちらも予測しながら手を打ちます。そんなやり取りをしながら、状況判断や知恵、行動等が早く出来る様になって行くと思います。遊びとは意地悪の連続なのかも知れません。見方が狭ければイジメに見えることもあるでしょう?砂場遊びでも一緒だと思います。一見、駆け引きは無さそうですが、そうではないと私は思います。 スコップの貸し借りやトンネルの開け方、壊し方も相手を感じながら、上手に駆け引きをしていますよね!本当に感心します。
イジメ
イジメは今も昔もありますが、違いは親の登場が早くなったことと、姿を見せないイジメがあること位でしょうか? あとは、子供同士の遊びの中で、自然に「弱い者イジメは悪いこと」だと身に付いていたものが、今は大人が教えなければならない気がします。遊びの変化は大きいですね*よく、子供達に「スポーツに限らず、悪いと思うことや遣り難いと思うことは、考え方や見かたを変えれば、逆に良く出来るし遣り易くもなる」と伝えています。その考え方は、イジメ問題にも当て嵌まると私は思っています。人間は、社会的な動物ですから、一人では生きて行けません。本能的に集まり助け合いながら暮すのだと思います。そして、助け合う=集まるという裏側には、イジメも当然起こってしまいます。動物が集まれば生存競争が生まれて来ます*これも本能的に自分が生き抜こうとしている事に他なりません。まして、子供の世界であれば、そういう本能が剥き出しになってしまうのは、当たり前なのではないのでしょうか?イジメてしまった子供と、イジメられた子供、私にはどちらも悪く捉える事は出来ないのです。 イジメた子も自責の念や、良心の呵責に苛み後悔をするでしょうし、イジメられた子は、悲しみを知り辛い事を乗り越えて逞しく成らなければなりません。またそれによって、慈悲の心を育んで欲しいと切に願います。その手助けをするのが、大人の役割ではないでしょうか? 何も怒鳴り込んで、相手を謝らせるだけが大人のする仕事ではない様な気がします。
友達
友達は本当に大切です。男女関係に於いては、喧嘩して口も聞きたくなくなり永遠の別れをしてしまうことは珍しくありませんが、友達は愛情や利害関係を超越するが故に、死ぬまで関係を保つことが出来ると考えます。私が小学生の頃も「もう絶交だ!」と言い合ったのに、次の日にはまた仲良く遊んでいました!笑 ケネディ大統領ではありませんが、お互いの多様性や価値観を認め寛容になれていたのですね。大人になりますと価値観や思想が固まり、違う意見を持つ者は寄せ付けなくなってしまうのかも知れません?大人になってからでは、友人を作るのが難しいと言われる所以でしょうか?
自然は学校 先生は動物
自然の中で子供達が育まれたら、どんなに素晴らしいことか?と何時も夢に描いています。この「クラウド アーツスポーツ アカデミー」という名前にさせて頂いたのは、自然の中で学ぶ学校の様なモノをイメージして付けました。学校教育とは違うアプローチの仕方で子供達を育みたいと思っています。クラウド学校の先生は、国に縛られませんので自由に時間を使いカリキュラムなどは用いず、愛情や熱意から日々勉強することを怠らず見識を広げながら生徒と接します。 子供達に何でもさせながら、さり気無く指導をするのです。人間という先輩の立場から*先ず、自由の大切さを自覚させる為には、自由だけ与えていては培われません。 ある日突然、自由や幸せは空から降って来ないのです。そこで、自然の中で思い切り遊んだ後は、座禅を組んだり、滝に打たれたり、武道を学んだり、山登り、田植え、野良仕事などの苦行を経験しながら所作や、社会規範を徐々に覚えて大人社会と自由の意味を自覚して行くのです。 勿論、勉強も大切ですからやります!笑 但し、国語、算数、理科、社会と区分けをしない形が理想です。英語も一切教えません。 日本語を正しく理解し覚えた後で良いと考えます。私は、未だに日本語を正しく使えていません!笑 科目の区分けをしない訳は、三つの理由があります。 その一つ目の理由は、何かひとつの事柄に対して集中力を40分間持続させるのは、至難の業だと思うからです。 そして、二つ目の理由に、勉強科目の好き嫌いを作り上げてしまう原因は、テストの点が取れないということも多少あるのでしょうが、もっと掘り下げれば、きっと将来的に何の役に立つのか解らないまま教えられる現状と、また興味のないモノに延々と時間を費すことにある?私はそう思っているからです。 最近起こった事件や物事から入り、歴史や社会に移行し、動物や宇宙の話から理科に飛び、ロケットの速さに興味が移れば算数になって行く、そんな形ならドンドン目先が変わって面白くなると思うのです。 興味なんてそんなものではないのでしょうか? 科目をもっと身近に例えたり、興味を引きそうな話題から入れば、自ずと好奇心は自然と湧いて来るでしょう!「ボクにも、ワタシにも無関係ではないと!」また、科目の垣根を取り省けば、先生の予想を超えた楽しい授業が出来ると思うのです。 しかし、それには先生方が勉強以外の様々な知識や見識を広げなければならないという大変なことも当然あります。それでも先生は大人ですから、学ぼうとすれば何時でも勉強出来る筈です。もし、万が一それが難しければ、専門知識を持った技術者や学者を呼び、共に学んだって良いではありませんか? 先生はスーパーマンである必要はありません。共に学び、共に汗を掻き、共に悔しがり、共に喜こび、その全てを経験する過程に於いて、お互いを感じながら共有成長すれば、生徒と先生の距離も近くなり、素晴らしい人間関係を構築することが出来るでしょう* 前にも述べましたが、人群れれば必ず争い事も生じます。 しかし、この学校では喧嘩の仲裁は上級生達に任せて見守り、出来るだけ自分達で解決させるのです。クラウド学校では、少々の怪我なんて気にしない子供達で溢れている光景が目に浮かびます。子供達が家に帰りたくないと思う様な学校!もっと勉強したい!と思われる様な先生!そんな空間を造ることが出来れば本当に素晴らしい* これは私の希望ですが、この学校にはトラやチーター、馬やイノシシ達も一緒にいます!笑 その野生動物達のお世話もさせて頂けるのです*笑 トラは私が引き受けます!笑 タイの寺院では、トラが放し飼いにされていたり、修行僧がトラの背中に乗っている場面をテレビで観て私は本当に羨ましく思いました。こんなデンジャラスな学校、多分誰も入学しませんね*笑 子供達の先生が、自然や動物達なら心の病んだ大人には決してならないと確信しています。校長先生が「トラ様」だったら面白いですね*誰も文句を言えません*笑 自然の中で学び、先生はトラや野生動物達!考えただけでも私の心は弾み胸は躍ります* 言い忘れましたが、給食は皆で作ります。 材料も田んぼや畑を耕し、自給自足を学校で体験します。 「汚ーい」「気持ち悪~い」なんて言う子は一人もいなくなるでしょう?クラウド学校は実現するでしょうか?きっと不可能でしょうが、不可能と思われること程、私の魂に火を点けファイトが湧いて来るのでした!!!夢のまた夢* 子供達に伝えている「遣り難いことは、遣り易く出来る」を自問自答しながら・・・最後に三つ目の理由を述べさせて頂きます。それは、勉強する意味付けをどう感じさせるか?ということです。 全ての人間は、人の役に立つ為に働き、そして、その労働によって自身が豊かになる勉強ならば、誰しも意欲的になれると思います。受験の為だけだったり、良い会社に入る為だけだったら空し過ぎます。その様な功利的な考えから脱却しなければ、本当の勉強の楽しさは知り得ないと考えています。そこに科目の垣根は要りません。みんな繋がっているのですから! 勉強の出来ない私ごときが、偉そうなことを申し上げまして本当に申し訳ございません。恥ずかしいのでこの辺で止めて置きます* 先日、子供同士の喧嘩をして、それを何週間も引きずっていた子供達を私がキツク叱った後に、この学校の話をすると大変盛り上がり歓喜の声に包まれ、予想外の興奮状態に私自身がビックリしてしまいました。皆が何故か「やった!やった!やった!」や「行く行く!」「ウオ~」「行きてぇ~」などと在りもしないのに行くつもりでいます?笑 私が「違う違う?そういう学校を造った時に、みんなに手伝って欲しいと言っているだけだよ」と言っても耳を貸してくれません。 大喜びで友達同士盛り上がっていました。こんなヌカ喜びさせず、本当にクラウド学校があったらなあ?と申し訳なく想い少し感傷的になりました*
ヤスユキの仮想授業
もし、私がクラウド学校の先生にさせて頂けたら、こんな授業をすると思います。勿論、体育の先生しか出来ません。あっ!体育の先生に失礼ですね*すみません。絵空事や戯言としてお聞き下さい。朝、教室に入って行き、唐突にインディアンの物真似をして「ワワわわわわ~!」手で口を叩きながら奇声を発します!「おはよう」の挨拶を済ませると、こんなことを言うのでした。インディアンの顔はアジア人の顔に似ています。私の死んじゃったお婆ちゃんそっくりです!ガハハ もしかしたら祖先は一緒なのかも知れません?私はインディアンが大好きです。何故かというと必要以上に動物を殺して食べないからです。そして、殺した動物には祈りを捧げて感謝することを決して忘れません。いつも自然を神様として、野生動物たちは兄弟として崇めています。 自分達が一番偉くないことを知っていて「ありがたい」とか「おかげさまで」の気持ちを持っています。だからでしょうか? インディアンには、太った人がいないのですよ! 余分には絶対食べない。もうひとつ太らない訳があります。それは、食べる前に必ず体を動かして働くからです! だから健康なのかも知れませんね?みんなも、朝から体を思いっ切り動かそう!インディアンの様に~と言って運動場に出て行きます。「わーい!わーい」と、言いながら!笑 その体育の授業にはチーターが競争しようと爪と牙を研きながら待っています。 多分、実際には犬になるのでしょうが?笑 そして、タイムを計りながら楽しく競争した後、こんな質問をします? 人間の歩く速さは、大体時速4キロメートルと言われているけれども、みんなが今走った50メートルを歩いたら何秒掛かるでしょう?何て、道のり・速度・時間のバス停マークを教えるのです。またクラスの平均を出してみたり、平均値に届かない子供達に走り方の奥義を伝授して平均値がどれ位上がるのか?を試して見ても面白いと思います。武術の体の使い方を教えながら~さて次に、チーターは最高時速110キロで走りますが、100メートルをおよそ何秒で走れますか?と膨らませて行くのです。じゃあ、今度はみんなで問題を作ってみよう! 動物、車、ロケット、何でも良いから面白い問題を作れた子は、放課後好きな動物と遊ぶことが出来るよ!こんな授業で良いのでしょうか?笑 そして、その出来た問題の主人公を図工の工作で造り仮装競争をするのです。 めちゃくちゃですね?笑 この様に体育の「走る」授業が気付かない内に算数になっていたり、もし時間とは何か?と疑問を持ったら理科になって行った! 本当に考えただけでも楽しくなりませんか?アラビア文字=数字の発明や0を発見したインド人の話、ピラミッドなどと広がっていくのでしょう!最近知ったお話ですが、フィンランドでは、国語の授業で本を読み、そのイメージを工作で表現したり、劇にしたり、絵で表現したりする授業があることを知りました。悔* 無限の可能性を引き出すことに取り組んでおられます。 また、フィンランドには塾は一つもないそうです。とても羨ましい*学校の放課に宿題を皆で助け合いながらやり、教え合い解り合うのだそうです。学校から帰ったら沢山遊べて色んな事を子供たち同士で学んで行くのですね!日本の子供達にも味わって欲しい*サッカー・テニス・ベースボールに限らずスポーツトレーニング教本全般にそうですが、この年代には掛け算の九九を教えてという様なことが、当たり前の様に言われています。私は、そういう形に拘ることに対していつも疑問を抱くのです。よく自信満々にそれをトクトクと説く?ダジャレです*先生やコーチもおられますが、本当にそれを証明、実証出来る裏付けがあるのでしょうか?必ずしも裏付けがなくても良いと私は思いますが、何か無機質に冷たく感じてしまうのです。子供達に対する熱意や情熱の様なものは伝わって来ません*人間は生き物です。様々な子供達がいる中で、これが正しいなんて言い切れないでしょう? 先後に囚われず興味の引き出し方次第で、どんな風にアプローチするのかは、先生各々異なって当然ですし、また自由なのですから柔軟に対応した方が、きっと楽しい授業が出来るのではないのでしょうか?これを書き込みながら、全国学力テストの是非の答えが見えて来ました!いつも外国や都道府県との比較をして一喜一憂し、可笑しな変更をするシステムの根本から改めないといけないと思います。今は、だた世界一になることだけを目標にしているかの様に私には映ります。 未来の幸せを願うのであれば「記憶=暗記」させて良い点を取らせることに囚われないで時間を掛けて「知る」何故そうなるのか?という疑問を持たせることから始めるべきだと思います。 詰め込み教育からゆとり教育へ、また何の進歩もなく再度「詰め込み教育」の繰り返しでは明るい未来はありません。私が感じます所、基本的な理念がブレテしまうからではないのか?と思っています。確かにどんなことでも、人間がすることですから、何も問題なくより良い方向に進み続けることはないのでしょう?ですから、最も大切で普遍的なものは、しかっり守り肉付けをしていったり、削ぎ落としたりしながら、確立させて行かなければなりません。根元の理念の根をしっかり張ればそう簡単には揺らがないと思います。優しい子を作ろうとしたり、勉強が世界一に成る様なことを目指したり、どんな子供達の幸せを望み、どんな国を創ろうとしているのか?さっぱり解りません。頭の良い方々が考えることは、私の様な馬鹿な頭では理解出来ないのかも知れませんね* 価値観は何も勉強が全てでは無い筈です。勉強は全国ワースト1位でも、不登校が少ないのは、ベスト3位とかなら素晴らしいではありませんか?物事の見方は一つだけではありません。戦後は、学力の底上げをしようと平均点を上げ、歯車的な人材を育て様としたのが詰め込み教育です。そして、その結果、嫌な言い方ですが「落ちこぼれ」による社会的な問題を生み出してしまいました。 そんな中、中曽根首相の下「ゆとり教育」と称し、歯車ではないモーターを作り出そうと創造性を育むことにシフトした。 しかし、自由を履き違えた形で実践してしまいました?時間を増やしたり、減らしたりする施策や自由時間を与えただけでは思惑通りに成りませんでした。自然の中に連れて行けば良いのに?と私は思います。 短絡的ですかね?でも自然の中は教材が一杯あります。 クドイのですが、根本からシステムを変えなければ、行き着く先に明るい未来は見えては来ません。勉強だけが出来る人達だけで、物事を決めているとこういう結果になりかねません?ある学校の先生から、こんなことを教えて頂きました!自由な時間を貰っても「何をしたらよいのか?時間を持て余している所も現実としてある」と教えて下さいました。 本当に勿体無い*外国のマネや合わせるのではなく、独自のモノを過去の歴史や先人から学べば良いと思います。そして、素晴らしい人間を海外に沢山送り出し、他国にマネされる位なら胸を張れます。 どの国に対しても、「我が国はこうです。」と・・空耳でしょうか?じゃあお前、具体的にどうするのか言ってみろ~? では、申し上げさせて頂きます!笑 先ず、高校、大学の改革です。大学は遊びに行く所ではありません。しかし、日本の多くの大学はそうなっています。親の脛を齧り「今の内にしか遊べないから遊ぶのだ」と何回お聞きしたことか?遊びたいのなら、自分の働いた金で遊びなさいと言いたいです。基礎学力を小学生、中学生と学んで来たにも拘わらず、何故、高校、大学生になってもまだするのか理解に苦しみます。私の提案は高校入試、大学入試の廃止です。中学生までに基礎学力を身に付けた後は、自分が興味を持った好きな道で専門分野を学ぶのです。本当に役立つ勉強をすれば良いと思います。 人生そんなに長くはありません。無駄な時間を費やすよりも、好きな道を突き進んだ方が、納得の行く人生になると考えています。受験=暗記に費やす労力を考えれば、受験の為の勉強なのですから、こんな無駄なことはありません。もっと役に立つことに邁進した方が人間らしくありませんか?とても有意義だと思います。大学を出たという体裁や見掛けだけよくても、小さな優越感だけで終わりです。「いい国創ろう鎌倉幕府」は殆どの方がご存じの年号の覚え方ですが、ただ覚えただけなら受験、テスト暗記の勉強ですよね! 1192年に誰が何をしてどんな国を創り、また創ろうとしたのか?その背景は、どういったことがあったのか?その前の時代はどうだったのか?その終焉はどうなったか?そういうことに興味を持ち想像力を働かせた上で、自分なりの価値観、感情や経験から独自の歴史観を生み、自身や身近な社会に反映させてこそ本当に勉強になったと言えるのではないのでしょうか?授業の終わりは、こんな終わり方でどうでしょう?インディアンは、二本の槍を持っています。一本は狩りをする為のモノです。軽くても、重くてもいけません。自分に合った丁度良い重さに自分で作り仕上げます。もう一つの槍は、インディアンの人だけではなく、皆にも是非持って欲しい槍ですが、皆はどんな槍が持ちたいですか?・・・「私は、ビーズの付いた可愛い槍!」 「僕は、ゲーム付きの楽しい槍???」と答えが出た時、私はこう言うのでした。皆に持って欲しい槍は「思い遣り」です*
1+1=2?
こんなことをお聞きして、目から鱗が落ちたことがありました!それは、1+1=2なんて本当は間違っているという!というお話です。例えば、犬1匹と犬1匹は2匹にはならない? ジョン1匹とチビ1匹に過ぎません。全ての数式?公式や数字は飽くまでも仮定の上でのことだと教わりました。「1」というモノが一体何処にあるのか?と自身に解いてみればよく解ります。更にある1と全く同じ1などこの世にはないのです!私は、この様なことがスポーツ指導上に於いても言えると思うのです。絶対なんてない!円周率と同じ様に、正確な値は求められないから、パイという記号を使うしかない。円の面積すら正確に解らないのに、半径なら尚更測定することなどは不可能でしょう!スポーツ指導の中でも同じことが沢山行われています。要するに、子供達に暗記させることを強要し、結果が直ぐに得られる教え方です。形を覚えさせ、一見理解させたつもりでいても、そこからはオリジナルは生まれませんし、自身で疑問を持ち考え工夫する力は衰退させてしまいます。テストの点が取れる人間や、そこそこ無難にスポーツが出来る選手を作るだけです。「なんでだろう」や「どうしてこうなるのかなあ?」ということは、不要なことで早く覚えろと言うかの如くの指導方法です。子供達に自分なりの広い価値観と発想が出来る様に興味を持たせることが、本当の指導教育ではないのでしょうか?自分が考えた方法や、発想、閃きでプレーを編み出し表現出来る選手を育成したいものです。私は、何時もこの「閃き」や「発想力」が日本の選手に一番欠けているモノだと感じています。だから面白くありません。小さい時から、サッカーだけしかやってこなかった?有名ブランドに惑わされた上、勝つことだけを一番の目的にした指導方法により、ただ巧い選手やリスクを冒さないベターな選手を育んでいるのではないか?そう私は感じています。
親がいないことで成長する?
子供は「こども」ですから、意味や訳も解らないまますることがよくあります。親の後ろ盾がある時には、守られているが故に考えないで行動したり、発言したりするのでしょう?しかし、その習慣に慣れ切ってしまい抜け出せない子供は、身勝手な言動や行動が多いと感じています。私は、どちらかと言えば「発言」の方が気になります。 行動に関しましては、案外寛容になれるのですが、身勝手な発言や話し方は将来的に大丈夫かなあ?と憂いてしまいます。 それが、まだ低学年なら可愛く思えるのですが、高学年になっても一緒では本当に心配です*また、それが面白い事にプレーにも現れてしまい、責任感のないプレーだったり、キック、パス、トラップ、状況判断など全に影響を及ぼしてしまうのです。ただミスをするのとは意味が違います。ミスは誰でもするのですから~何と申し上げればよいのでしょうか?やはり自身のプレーに責任を持つ?持とうと努力している!そのことが、指導者には敏感に伝わり手に取る様に見えてしまうのです。プレーと話し方やその内容は密接にリンクしていると強く感じます。意味もなく唐突にある物事を話して来たり、それに対してこちらが疑問に思いつつ応じても「ただの言いっ放し!」だったりすると、自分しかないのだなあ?と残念な気持ちになります。私の指導力不足かも知れません*しかし、どんな欠点がある子供でも皆可愛いのですよ~頬や頭にキスしたくなるくらい*
トレーニングメニューを考えて
自然は学校の中で、授業科目の区分けをしない云々の話をしましたが、私のトレーニングメニューは全くそのモノが当て嵌まります。事前に前回のトレー二ングメニューの反省を活かしたモノを考えて行くのですが、現場では大抵異なった形に変化します。以前読んだオシムさんの本の中で「メニューを前日に考えても仕方がない」と言うお言葉がありました。何も考えなくて良いとおっしゃっているのではなく、その時、その現場で選手達のプレーを見て敏感に感じ取り想像力を働かせメニューに反映させ様としているのはないか?私はそう受け止めています。勝手な想像ですが・・少なくとも私はそう努力しているつもりです。オシムさんほどの監督であれば、そんなことは容易いことでしょうが、私は冷や汗を掻きながら日々取り組んでいます。当クラブでも指導理念に「一貫性の指導」とか「ランダムな指導をさける」なんて見かけの良い言葉を並べていますが、記して置きながらこんな事を申し上げるのは恐縮ですが、何か功利的な様な気がして正直に申し上げますと恥ずかしく思う時もあるのです。現代社会の風潮は、目に見える物だけを信じ、明確に分かり易く書いてある物を重要視していると私は感じています。 例えば、消費、賞味期限だけに左右されたり、チラシに消費者の感想や声を載せてアピールしたり、また、ある有名人が「これは効く」とか「これは凄い」などと言うと、どっと消費量が増え、猫も杓子も我先に買い求めてしまいます*流行に乗せられ易い国民性なのでしょうか?善意に捉えればある意味素直なのかも知れませんが、でもそういう心理を自覚して置かなければならないと思います。戦争経験者の諸先輩方は、だから注意を促しているのかも知れませんね?一つの方向に流されると歯車を止めることは非常に難しくなります。大木が垂直の位置から倒れる時に数センチ動いた所で支えれば、容易に止めることが出来ますが、地面スレスレでは支えても押し潰されてしまい止めることは出来ません。クラウドのチラシを見ていましても、これで良いのだろうか?と何時も悩み頭を抱えてしまいます。
日本は変な保護国
何か不満や不都合があれば、人のせい!社会のせい!誰かのせいでは、人間は、ただ生きているだけの様に思えます。全て自分の思う様になる世の中など存在しません。それを嫌なことと捉えるのか、当たり前だと受け入れ、少しでも希望を叶えられる様に努力するのかは大きな違いです。今現在の社会は、規範の範囲が曖昧になり、個人の自由との境界線が見え難くなっています。時代の流れとは故、どうしてこの様なことになってしまったのか?本当に残念です。何十年位前でしょうか?今は巨匠と言われているある有名なタレントが、大きな不祥事を起こして謹慎した後に、復帰記者会見を行いました。その時に私は、何と言って釈明や謝罪するのかと注意深くテレビを観ていました。記者の「事件に対して今、どう思っていますか?」との問い掛けに「私の中では、もう終わったことだと思っています。」と聞き、落胆した記憶があります。またこんな切り返しで世間は納得出来てしまうのか?とても不思議な感覚に包まれました。「私の中で」と言う言葉が何度も何度も頭に巡りました?私の解釈が偏向しているのかも知れませんが「私の中で~」の真意は、他人がどう思おうと私は関係ない!とか、オレが終わりだと言っているのだから、それで何か文句があるのか?と言う全く身勝手と申しましょうか?自分が最も大切で人様や世間様には無関心であるとの考えを自ら宣言している様に私は聞こえたのです*人の振り見て我が振り直せ!と言いますが、今私は絶対遣いたくないと気を付けている言葉があります。 「私の中で」「とりあえず」「私的には」「よくなくなくなあ~い」笑 世間とは不思議なものです。針の先程の事に対しては大騒ぎをするのに、テレビなどに出演している影響力のある方の事件に対しては寛容な部分もありますよね?逆にその事件を売り物にして人気が出たりもするのですから・・・
真の喜び
スポーツの楽しみ方は様々な筈ですが、今の日本はどちらかと言えば勝つ事、お金だけに囚われています。スポーツとは一体何でしょう?何の為にスポーツをするのでしょう?今一度、自分自身と向き合い深く考えて見たいと思います。スポーツをすると、気持ち良いから!あの達成感が堪らない!意思疎通が出来た時の喜び、爽快感などなど沢山あります。プレーヤーから立場を変え、観る側から考えますと、お金を沢山貰うスーパープレーヤーが好きな人がいたり、私の様に地味だが見えない貢献をするシブイ選手が好きな者もいます。また、恵まれた環境で育ったイケメンでスマートな選手がお気に入りな方、対照的に貧乏のどん底から這い上がって来た泥臭い選手が好きな私!どんな選手を好きになり、どんなチームを応援するのかは個人の自由な価値判断に基づきます。スポーツには必ず勝ち負けがあります。しかし、スポーツをする価値や意味は、そんな表面的な価値判断では推し量れないモノだと思います。保護者様や監督コーチが深い目を持ち得なければ、子供達もきっとそうなってしまうのでしょう?その戦いの中で、勝ち以外の様々なことを感じ取り、自分に反映させていけるのかは本当に貴重で大切です。ある本の中で、こんな件がありましたのでご紹介致します。スポーツは表面的に勝敗を競う行為ではあるけれど、そこから学び、自分の成長の糧と出来るのは、人間のみに許された崇高な行為の一つである。私達はその事に気付かせてやる使命があるのではないでしょうか。スポーツから学んだもの、感じたものを自分の血肉にする能力を持っているのは、私達人間だけであることを忘れてはいけません・・・
野生動物の方々に失礼をお詫び致します。貴方達の方が崇高なモノは人間よりも沢山持ち合わせています事は重々承知しております。崇高なモノが少ない人間を諌める言葉であるとどうかご理解下さい。
「勝ち負けを超えた喜び」こそ、私が想う真の喜びです*
生と死
生きることと死ぬことは、別々に考えてしまいがちですが・・・この話題は止めておきます。驕りがでそうですので*
人間は動物
時々、子供達に話をしている中で「人間は動物ですから~」と言うと「えっ~動物じゃあない!」との声が返って来ます。間違いなく人間は動物の一種です!笑 こんなに小さい子供達の中にも、人間至上主義が芽生えているのでしょうか?大自然の中に身一つで入っていけば、人間様が一番偉くないことは直ぐに分かります。私は、いつも野生動物の方が人間よりも偉いと思っています。何故なら、それは自分の子供に期待を懸けたり、見返りを求めて老後の面倒を見て貰おうとは考えないからです。これだけしてやったのに!とか、これだけしたから結果を出せ!何て言わずに、だた一生懸命育てるだけですよね*この仕事をしていますと、よく子供の将来の可能性などを、お聞きして下さる保護者様がお見えになりますが、それを聞いて何をなさろうとしているのでしょうか?他の動物にそういう親はいません。 時々色んな場面での言動をお聞きしていますと「投資でもしている気持になってはいませんか?」と尋ねて見たくなる時もあります。子供の人生は子供のモノではないのでしょうか*野生動物達は、狩りの仕方や生きて行く知恵や術を教え、そして大人になる時期が来ると、非情なまでに追い出し自立を求めます。 しかし、人間の親は子供を縛り、身勝手な期待を懸け、更に自身の思いと結果が違えば、無情にも取り上げてしまうのです。本当に悲しい*最近お聞きした話ですが、愛知県のある有名クラブチームの試合中、保護者のお父さんがご子息にあれこれと指示を出していましたら突然、監督さんに「黙っとれ!」と怒鳴られお叱りを受けてしまったそうです。私の場合は、皆さんの手前もありますので、先ず目で訴え、それでもご理解頂けない時には、そっと小さな声でお伝えする様に気をつけているつもりです。正しいからと言ってどんな方法でも善いとは限らないと思います。その監督さんは、きっと立派な方でしょうから、その前から色々あって堪忍袋の緒が切れたのかも知れません? 最近こういった類の話をよく耳にします。 これも本当に残念なことですね* 親の言うことを聞きプレーして、子供が楽しい筈がないのは分かっているにも拘わらず、勝ちたいばかりに指示を出してしまうのでしょう?それとも監督に成りたいのでしょうか?はたまた、その行為によって親の威厳を示したいのでしょうか?どちらか分かりませんが、自分で考え判断してこそ楽しいのに、それを奪ってしまうとは本当に勿体無い。学校のテストの時に、親が横にいて答えを教え「100点取れた」と喜んでいるに等しいことと思います。間違いを許されない選手は、何時失敗の経験が出来るのでしょうか? 成長は失敗の繰り返しから生まれます。訳が解らないまま、親の指示通り行い勝っても、本人の為には成り得ません。勝った小さな喜びだけで終わってしまいます。もし、野生動物がそういう人間の現状を目の当たりにしたら何と言うでしょうか?「愚か者だニャ~」「子供が可哀想だワン」とか言いませんかね!笑 4年位前から、試合の規則も段々厳しくなり、保護者による指示がありますと監督が退場処分を受ける様になってしまいました。こんな規則が出来てしまうのも、今の社会を物語っているのかも知れません* オランダの英雄、ヨハン・クライフさんの子供は乗馬をしているそうですが、自身の子供に対して、一切口出しはしないそうです。 多分、それは「明るく元気に育ってくれれば良い」という位に大きな目で見ているからなのでしょう* クライフさんの本を拝読させて頂きますと、よく解ります。 スポーツとは「遊び」遊びとは、自由です。自由とは言い換えれば「主体性」だと私は考えます。 自分の「やりたい様に出来る」から何時までも遊んでいられるのでしょうし、決して飽きることはありません。 お腹が空いたり、日が暮れ帰らないと叱られるから慌てて家路に着くのだと思います。スポーツも一緒で、幼児や小学生の子供が途中で「ツマラナイ」から辞めてしまうのは、全て指導者の責任です。スポーツ=遊びの良さを忘れ、コーチの力量を誇示することに囚われ、工夫もない練習や、成果が直ぐ上がる単調なメニューの繰り返しから、ドロップアウトさせてしまうのです。 親の強制退会も一部あります。子供達は何も、体に良いからとか、社会性が身に付くとか、挨拶が出来る様になるからとの理由でスポーツを始めるのではありません。それこそ結果として、知らず知らずの内に培われて行くだけのことなのです。 応援の仕方や声援についても少し触れますと、ドイツの親達は「いいぞ~」「もう一度」「良いプレーだ」「シェーン!シェーン!」と声援を送り、日本では、「前に行け」「下がれ」「そこに居れ」「離れろ」「違うだろう」です。どちらの応援で子供達が伸び伸びプレー出来るのか?一目瞭然ですね*
子供は所有物ではない
暗い話題で恐縮ですが、自殺と言う問題は世界中に沢山起こっています。素朴な疑問ですが、外国の自殺と日本の自殺に違いはあるのでしょうか?将来を悲観したり、絶望の淵に追いやられたり、様々な要因が考えられますが、無理心中に絞って話をしますと、こんな興味深いことを聞いたことがあります。 欧米では、親が子供を道ずれにすることは少ないそうですが、日本ではよくあることです。何故でしょうか?すみません。この先を書き込もうか悩んでいます?迷った時は止めて置きます。ブログはモノローグ、独白ですからより謙虚にならないといけないですね*好んでこのブログを書いている訳ではありませんが、いちスポーツ指導に携わっている人間として、その近況や身近で感じたことをお伝えすれば、何かお役に立てる様な気がする?との目に見えない小さな貢献がしたいだけなのです。単なるマスターベーションに過ぎないかも知れません*
遊び
誤解を恐れずに申し上げれば、遊びは「騙し合い」です。大人が描く様な何時も仲良く笑ってばかりの遊びは本当の遊びではないと私は思います。言葉は悪いのですが、騙すとは、駆け引きやフェイントをかけて相手を出し抜きながら、またその上を行こうとする繰り返しなのです。 相手もまた考え、裏の裏を掻いて仕掛けて来るでしょうし、それをこちらも予測しながら手を打ちます。そんなやり取りをしながら、状況判断や知恵、行動等が早く出来る様になって行くと思います。遊びとは意地悪の連続なのかも知れません。見方が狭ければイジメに見えることもあるでしょう?砂場遊びでも一緒だと思います。一見、駆け引きは無さそうですが、そうではないと私は思います。 スコップの貸し借りやトンネルの開け方、壊し方も相手を感じながら、上手に駆け引きをしていますよね!本当に感心します。
イジメ
イジメは今も昔もありますが、違いは親の登場が早くなったことと、姿を見せないイジメがあること位でしょうか? あとは、子供同士の遊びの中で、自然に「弱い者イジメは悪いこと」だと身に付いていたものが、今は大人が教えなければならない気がします。遊びの変化は大きいですね*よく、子供達に「スポーツに限らず、悪いと思うことや遣り難いと思うことは、考え方や見かたを変えれば、逆に良く出来るし遣り易くもなる」と伝えています。その考え方は、イジメ問題にも当て嵌まると私は思っています。人間は、社会的な動物ですから、一人では生きて行けません。本能的に集まり助け合いながら暮すのだと思います。そして、助け合う=集まるという裏側には、イジメも当然起こってしまいます。動物が集まれば生存競争が生まれて来ます*これも本能的に自分が生き抜こうとしている事に他なりません。まして、子供の世界であれば、そういう本能が剥き出しになってしまうのは、当たり前なのではないのでしょうか?イジメてしまった子供と、イジメられた子供、私にはどちらも悪く捉える事は出来ないのです。 イジメた子も自責の念や、良心の呵責に苛み後悔をするでしょうし、イジメられた子は、悲しみを知り辛い事を乗り越えて逞しく成らなければなりません。またそれによって、慈悲の心を育んで欲しいと切に願います。その手助けをするのが、大人の役割ではないでしょうか? 何も怒鳴り込んで、相手を謝らせるだけが大人のする仕事ではない様な気がします。
友達
友達は本当に大切です。男女関係に於いては、喧嘩して口も聞きたくなくなり永遠の別れをしてしまうことは珍しくありませんが、友達は愛情や利害関係を超越するが故に、死ぬまで関係を保つことが出来ると考えます。私が小学生の頃も「もう絶交だ!」と言い合ったのに、次の日にはまた仲良く遊んでいました!笑 ケネディ大統領ではありませんが、お互いの多様性や価値観を認め寛容になれていたのですね。大人になりますと価値観や思想が固まり、違う意見を持つ者は寄せ付けなくなってしまうのかも知れません?大人になってからでは、友人を作るのが難しいと言われる所以でしょうか?
自然は学校 先生は動物
自然の中で子供達が育まれたら、どんなに素晴らしいことか?と何時も夢に描いています。この「クラウド アーツスポーツ アカデミー」という名前にさせて頂いたのは、自然の中で学ぶ学校の様なモノをイメージして付けました。学校教育とは違うアプローチの仕方で子供達を育みたいと思っています。クラウド学校の先生は、国に縛られませんので自由に時間を使いカリキュラムなどは用いず、愛情や熱意から日々勉強することを怠らず見識を広げながら生徒と接します。 子供達に何でもさせながら、さり気無く指導をするのです。人間という先輩の立場から*先ず、自由の大切さを自覚させる為には、自由だけ与えていては培われません。 ある日突然、自由や幸せは空から降って来ないのです。そこで、自然の中で思い切り遊んだ後は、座禅を組んだり、滝に打たれたり、武道を学んだり、山登り、田植え、野良仕事などの苦行を経験しながら所作や、社会規範を徐々に覚えて大人社会と自由の意味を自覚して行くのです。 勿論、勉強も大切ですからやります!笑 但し、国語、算数、理科、社会と区分けをしない形が理想です。英語も一切教えません。 日本語を正しく理解し覚えた後で良いと考えます。私は、未だに日本語を正しく使えていません!笑 科目の区分けをしない訳は、三つの理由があります。 その一つ目の理由は、何かひとつの事柄に対して集中力を40分間持続させるのは、至難の業だと思うからです。 そして、二つ目の理由に、勉強科目の好き嫌いを作り上げてしまう原因は、テストの点が取れないということも多少あるのでしょうが、もっと掘り下げれば、きっと将来的に何の役に立つのか解らないまま教えられる現状と、また興味のないモノに延々と時間を費すことにある?私はそう思っているからです。 最近起こった事件や物事から入り、歴史や社会に移行し、動物や宇宙の話から理科に飛び、ロケットの速さに興味が移れば算数になって行く、そんな形ならドンドン目先が変わって面白くなると思うのです。 興味なんてそんなものではないのでしょうか? 科目をもっと身近に例えたり、興味を引きそうな話題から入れば、自ずと好奇心は自然と湧いて来るでしょう!「ボクにも、ワタシにも無関係ではないと!」また、科目の垣根を取り省けば、先生の予想を超えた楽しい授業が出来ると思うのです。 しかし、それには先生方が勉強以外の様々な知識や見識を広げなければならないという大変なことも当然あります。それでも先生は大人ですから、学ぼうとすれば何時でも勉強出来る筈です。もし、万が一それが難しければ、専門知識を持った技術者や学者を呼び、共に学んだって良いではありませんか? 先生はスーパーマンである必要はありません。共に学び、共に汗を掻き、共に悔しがり、共に喜こび、その全てを経験する過程に於いて、お互いを感じながら共有成長すれば、生徒と先生の距離も近くなり、素晴らしい人間関係を構築することが出来るでしょう* 前にも述べましたが、人群れれば必ず争い事も生じます。 しかし、この学校では喧嘩の仲裁は上級生達に任せて見守り、出来るだけ自分達で解決させるのです。クラウド学校では、少々の怪我なんて気にしない子供達で溢れている光景が目に浮かびます。子供達が家に帰りたくないと思う様な学校!もっと勉強したい!と思われる様な先生!そんな空間を造ることが出来れば本当に素晴らしい* これは私の希望ですが、この学校にはトラやチーター、馬やイノシシ達も一緒にいます!笑 その野生動物達のお世話もさせて頂けるのです*笑 トラは私が引き受けます!笑 タイの寺院では、トラが放し飼いにされていたり、修行僧がトラの背中に乗っている場面をテレビで観て私は本当に羨ましく思いました。こんなデンジャラスな学校、多分誰も入学しませんね*笑 子供達の先生が、自然や動物達なら心の病んだ大人には決してならないと確信しています。校長先生が「トラ様」だったら面白いですね*誰も文句を言えません*笑 自然の中で学び、先生はトラや野生動物達!考えただけでも私の心は弾み胸は躍ります* 言い忘れましたが、給食は皆で作ります。 材料も田んぼや畑を耕し、自給自足を学校で体験します。 「汚ーい」「気持ち悪~い」なんて言う子は一人もいなくなるでしょう?クラウド学校は実現するでしょうか?きっと不可能でしょうが、不可能と思われること程、私の魂に火を点けファイトが湧いて来るのでした!!!夢のまた夢* 子供達に伝えている「遣り難いことは、遣り易く出来る」を自問自答しながら・・・最後に三つ目の理由を述べさせて頂きます。それは、勉強する意味付けをどう感じさせるか?ということです。 全ての人間は、人の役に立つ為に働き、そして、その労働によって自身が豊かになる勉強ならば、誰しも意欲的になれると思います。受験の為だけだったり、良い会社に入る為だけだったら空し過ぎます。その様な功利的な考えから脱却しなければ、本当の勉強の楽しさは知り得ないと考えています。そこに科目の垣根は要りません。みんな繋がっているのですから! 勉強の出来ない私ごときが、偉そうなことを申し上げまして本当に申し訳ございません。恥ずかしいのでこの辺で止めて置きます* 先日、子供同士の喧嘩をして、それを何週間も引きずっていた子供達を私がキツク叱った後に、この学校の話をすると大変盛り上がり歓喜の声に包まれ、予想外の興奮状態に私自身がビックリしてしまいました。皆が何故か「やった!やった!やった!」や「行く行く!」「ウオ~」「行きてぇ~」などと在りもしないのに行くつもりでいます?笑 私が「違う違う?そういう学校を造った時に、みんなに手伝って欲しいと言っているだけだよ」と言っても耳を貸してくれません。 大喜びで友達同士盛り上がっていました。こんなヌカ喜びさせず、本当にクラウド学校があったらなあ?と申し訳なく想い少し感傷的になりました*
ヤスユキの仮想授業
もし、私がクラウド学校の先生にさせて頂けたら、こんな授業をすると思います。勿論、体育の先生しか出来ません。あっ!体育の先生に失礼ですね*すみません。絵空事や戯言としてお聞き下さい。朝、教室に入って行き、唐突にインディアンの物真似をして「ワワわわわわ~!」手で口を叩きながら奇声を発します!「おはよう」の挨拶を済ませると、こんなことを言うのでした。インディアンの顔はアジア人の顔に似ています。私の死んじゃったお婆ちゃんそっくりです!ガハハ もしかしたら祖先は一緒なのかも知れません?私はインディアンが大好きです。何故かというと必要以上に動物を殺して食べないからです。そして、殺した動物には祈りを捧げて感謝することを決して忘れません。いつも自然を神様として、野生動物たちは兄弟として崇めています。 自分達が一番偉くないことを知っていて「ありがたい」とか「おかげさまで」の気持ちを持っています。だからでしょうか? インディアンには、太った人がいないのですよ! 余分には絶対食べない。もうひとつ太らない訳があります。それは、食べる前に必ず体を動かして働くからです! だから健康なのかも知れませんね?みんなも、朝から体を思いっ切り動かそう!インディアンの様に~と言って運動場に出て行きます。「わーい!わーい」と、言いながら!笑 その体育の授業にはチーターが競争しようと爪と牙を研きながら待っています。 多分、実際には犬になるのでしょうが?笑 そして、タイムを計りながら楽しく競争した後、こんな質問をします? 人間の歩く速さは、大体時速4キロメートルと言われているけれども、みんなが今走った50メートルを歩いたら何秒掛かるでしょう?何て、道のり・速度・時間のバス停マークを教えるのです。またクラスの平均を出してみたり、平均値に届かない子供達に走り方の奥義を伝授して平均値がどれ位上がるのか?を試して見ても面白いと思います。武術の体の使い方を教えながら~さて次に、チーターは最高時速110キロで走りますが、100メートルをおよそ何秒で走れますか?と膨らませて行くのです。じゃあ、今度はみんなで問題を作ってみよう! 動物、車、ロケット、何でも良いから面白い問題を作れた子は、放課後好きな動物と遊ぶことが出来るよ!こんな授業で良いのでしょうか?笑 そして、その出来た問題の主人公を図工の工作で造り仮装競争をするのです。 めちゃくちゃですね?笑 この様に体育の「走る」授業が気付かない内に算数になっていたり、もし時間とは何か?と疑問を持ったら理科になって行った! 本当に考えただけでも楽しくなりませんか?アラビア文字=数字の発明や0を発見したインド人の話、ピラミッドなどと広がっていくのでしょう!最近知ったお話ですが、フィンランドでは、国語の授業で本を読み、そのイメージを工作で表現したり、劇にしたり、絵で表現したりする授業があることを知りました。悔* 無限の可能性を引き出すことに取り組んでおられます。 また、フィンランドには塾は一つもないそうです。とても羨ましい*学校の放課に宿題を皆で助け合いながらやり、教え合い解り合うのだそうです。学校から帰ったら沢山遊べて色んな事を子供たち同士で学んで行くのですね!日本の子供達にも味わって欲しい*サッカー・テニス・ベースボールに限らずスポーツトレーニング教本全般にそうですが、この年代には掛け算の九九を教えてという様なことが、当たり前の様に言われています。私は、そういう形に拘ることに対していつも疑問を抱くのです。よく自信満々にそれをトクトクと説く?ダジャレです*先生やコーチもおられますが、本当にそれを証明、実証出来る裏付けがあるのでしょうか?必ずしも裏付けがなくても良いと私は思いますが、何か無機質に冷たく感じてしまうのです。子供達に対する熱意や情熱の様なものは伝わって来ません*人間は生き物です。様々な子供達がいる中で、これが正しいなんて言い切れないでしょう? 先後に囚われず興味の引き出し方次第で、どんな風にアプローチするのかは、先生各々異なって当然ですし、また自由なのですから柔軟に対応した方が、きっと楽しい授業が出来るのではないのでしょうか?これを書き込みながら、全国学力テストの是非の答えが見えて来ました!いつも外国や都道府県との比較をして一喜一憂し、可笑しな変更をするシステムの根本から改めないといけないと思います。今は、だた世界一になることだけを目標にしているかの様に私には映ります。 未来の幸せを願うのであれば「記憶=暗記」させて良い点を取らせることに囚われないで時間を掛けて「知る」何故そうなるのか?という疑問を持たせることから始めるべきだと思います。 詰め込み教育からゆとり教育へ、また何の進歩もなく再度「詰め込み教育」の繰り返しでは明るい未来はありません。私が感じます所、基本的な理念がブレテしまうからではないのか?と思っています。確かにどんなことでも、人間がすることですから、何も問題なくより良い方向に進み続けることはないのでしょう?ですから、最も大切で普遍的なものは、しかっり守り肉付けをしていったり、削ぎ落としたりしながら、確立させて行かなければなりません。根元の理念の根をしっかり張ればそう簡単には揺らがないと思います。優しい子を作ろうとしたり、勉強が世界一に成る様なことを目指したり、どんな子供達の幸せを望み、どんな国を創ろうとしているのか?さっぱり解りません。頭の良い方々が考えることは、私の様な馬鹿な頭では理解出来ないのかも知れませんね* 価値観は何も勉強が全てでは無い筈です。勉強は全国ワースト1位でも、不登校が少ないのは、ベスト3位とかなら素晴らしいではありませんか?物事の見方は一つだけではありません。戦後は、学力の底上げをしようと平均点を上げ、歯車的な人材を育て様としたのが詰め込み教育です。そして、その結果、嫌な言い方ですが「落ちこぼれ」による社会的な問題を生み出してしまいました。 そんな中、中曽根首相の下「ゆとり教育」と称し、歯車ではないモーターを作り出そうと創造性を育むことにシフトした。 しかし、自由を履き違えた形で実践してしまいました?時間を増やしたり、減らしたりする施策や自由時間を与えただけでは思惑通りに成りませんでした。自然の中に連れて行けば良いのに?と私は思います。 短絡的ですかね?でも自然の中は教材が一杯あります。 クドイのですが、根本からシステムを変えなければ、行き着く先に明るい未来は見えては来ません。勉強だけが出来る人達だけで、物事を決めているとこういう結果になりかねません?ある学校の先生から、こんなことを教えて頂きました!自由な時間を貰っても「何をしたらよいのか?時間を持て余している所も現実としてある」と教えて下さいました。 本当に勿体無い*外国のマネや合わせるのではなく、独自のモノを過去の歴史や先人から学べば良いと思います。そして、素晴らしい人間を海外に沢山送り出し、他国にマネされる位なら胸を張れます。 どの国に対しても、「我が国はこうです。」と・・空耳でしょうか?じゃあお前、具体的にどうするのか言ってみろ~? では、申し上げさせて頂きます!笑 先ず、高校、大学の改革です。大学は遊びに行く所ではありません。しかし、日本の多くの大学はそうなっています。親の脛を齧り「今の内にしか遊べないから遊ぶのだ」と何回お聞きしたことか?遊びたいのなら、自分の働いた金で遊びなさいと言いたいです。基礎学力を小学生、中学生と学んで来たにも拘わらず、何故、高校、大学生になってもまだするのか理解に苦しみます。私の提案は高校入試、大学入試の廃止です。中学生までに基礎学力を身に付けた後は、自分が興味を持った好きな道で専門分野を学ぶのです。本当に役立つ勉強をすれば良いと思います。 人生そんなに長くはありません。無駄な時間を費やすよりも、好きな道を突き進んだ方が、納得の行く人生になると考えています。受験=暗記に費やす労力を考えれば、受験の為の勉強なのですから、こんな無駄なことはありません。もっと役に立つことに邁進した方が人間らしくありませんか?とても有意義だと思います。大学を出たという体裁や見掛けだけよくても、小さな優越感だけで終わりです。「いい国創ろう鎌倉幕府」は殆どの方がご存じの年号の覚え方ですが、ただ覚えただけなら受験、テスト暗記の勉強ですよね! 1192年に誰が何をしてどんな国を創り、また創ろうとしたのか?その背景は、どういったことがあったのか?その前の時代はどうだったのか?その終焉はどうなったか?そういうことに興味を持ち想像力を働かせた上で、自分なりの価値観、感情や経験から独自の歴史観を生み、自身や身近な社会に反映させてこそ本当に勉強になったと言えるのではないのでしょうか?授業の終わりは、こんな終わり方でどうでしょう?インディアンは、二本の槍を持っています。一本は狩りをする為のモノです。軽くても、重くてもいけません。自分に合った丁度良い重さに自分で作り仕上げます。もう一つの槍は、インディアンの人だけではなく、皆にも是非持って欲しい槍ですが、皆はどんな槍が持ちたいですか?・・・「私は、ビーズの付いた可愛い槍!」 「僕は、ゲーム付きの楽しい槍???」と答えが出た時、私はこう言うのでした。皆に持って欲しい槍は「思い遣り」です*
1+1=2?
こんなことをお聞きして、目から鱗が落ちたことがありました!それは、1+1=2なんて本当は間違っているという!というお話です。例えば、犬1匹と犬1匹は2匹にはならない? ジョン1匹とチビ1匹に過ぎません。全ての数式?公式や数字は飽くまでも仮定の上でのことだと教わりました。「1」というモノが一体何処にあるのか?と自身に解いてみればよく解ります。更にある1と全く同じ1などこの世にはないのです!私は、この様なことがスポーツ指導上に於いても言えると思うのです。絶対なんてない!円周率と同じ様に、正確な値は求められないから、パイという記号を使うしかない。円の面積すら正確に解らないのに、半径なら尚更測定することなどは不可能でしょう!スポーツ指導の中でも同じことが沢山行われています。要するに、子供達に暗記させることを強要し、結果が直ぐに得られる教え方です。形を覚えさせ、一見理解させたつもりでいても、そこからはオリジナルは生まれませんし、自身で疑問を持ち考え工夫する力は衰退させてしまいます。テストの点が取れる人間や、そこそこ無難にスポーツが出来る選手を作るだけです。「なんでだろう」や「どうしてこうなるのかなあ?」ということは、不要なことで早く覚えろと言うかの如くの指導方法です。子供達に自分なりの広い価値観と発想が出来る様に興味を持たせることが、本当の指導教育ではないのでしょうか?自分が考えた方法や、発想、閃きでプレーを編み出し表現出来る選手を育成したいものです。私は、何時もこの「閃き」や「発想力」が日本の選手に一番欠けているモノだと感じています。だから面白くありません。小さい時から、サッカーだけしかやってこなかった?有名ブランドに惑わされた上、勝つことだけを一番の目的にした指導方法により、ただ巧い選手やリスクを冒さないベターな選手を育んでいるのではないか?そう私は感じています。
親がいないことで成長する?
子供は「こども」ですから、意味や訳も解らないまますることがよくあります。親の後ろ盾がある時には、守られているが故に考えないで行動したり、発言したりするのでしょう?しかし、その習慣に慣れ切ってしまい抜け出せない子供は、身勝手な言動や行動が多いと感じています。私は、どちらかと言えば「発言」の方が気になります。 行動に関しましては、案外寛容になれるのですが、身勝手な発言や話し方は将来的に大丈夫かなあ?と憂いてしまいます。 それが、まだ低学年なら可愛く思えるのですが、高学年になっても一緒では本当に心配です*また、それが面白い事にプレーにも現れてしまい、責任感のないプレーだったり、キック、パス、トラップ、状況判断など全に影響を及ぼしてしまうのです。ただミスをするのとは意味が違います。ミスは誰でもするのですから~何と申し上げればよいのでしょうか?やはり自身のプレーに責任を持つ?持とうと努力している!そのことが、指導者には敏感に伝わり手に取る様に見えてしまうのです。プレーと話し方やその内容は密接にリンクしていると強く感じます。意味もなく唐突にある物事を話して来たり、それに対してこちらが疑問に思いつつ応じても「ただの言いっ放し!」だったりすると、自分しかないのだなあ?と残念な気持ちになります。私の指導力不足かも知れません*しかし、どんな欠点がある子供でも皆可愛いのですよ~頬や頭にキスしたくなるくらい*
トレーニングメニューを考えて
自然は学校の中で、授業科目の区分けをしない云々の話をしましたが、私のトレーニングメニューは全くそのモノが当て嵌まります。事前に前回のトレー二ングメニューの反省を活かしたモノを考えて行くのですが、現場では大抵異なった形に変化します。以前読んだオシムさんの本の中で「メニューを前日に考えても仕方がない」と言うお言葉がありました。何も考えなくて良いとおっしゃっているのではなく、その時、その現場で選手達のプレーを見て敏感に感じ取り想像力を働かせメニューに反映させ様としているのはないか?私はそう受け止めています。勝手な想像ですが・・少なくとも私はそう努力しているつもりです。オシムさんほどの監督であれば、そんなことは容易いことでしょうが、私は冷や汗を掻きながら日々取り組んでいます。当クラブでも指導理念に「一貫性の指導」とか「ランダムな指導をさける」なんて見かけの良い言葉を並べていますが、記して置きながらこんな事を申し上げるのは恐縮ですが、何か功利的な様な気がして正直に申し上げますと恥ずかしく思う時もあるのです。現代社会の風潮は、目に見える物だけを信じ、明確に分かり易く書いてある物を重要視していると私は感じています。 例えば、消費、賞味期限だけに左右されたり、チラシに消費者の感想や声を載せてアピールしたり、また、ある有名人が「これは効く」とか「これは凄い」などと言うと、どっと消費量が増え、猫も杓子も我先に買い求めてしまいます*流行に乗せられ易い国民性なのでしょうか?善意に捉えればある意味素直なのかも知れませんが、でもそういう心理を自覚して置かなければならないと思います。戦争経験者の諸先輩方は、だから注意を促しているのかも知れませんね?一つの方向に流されると歯車を止めることは非常に難しくなります。大木が垂直の位置から倒れる時に数センチ動いた所で支えれば、容易に止めることが出来ますが、地面スレスレでは支えても押し潰されてしまい止めることは出来ません。クラウドのチラシを見ていましても、これで良いのだろうか?と何時も悩み頭を抱えてしまいます。
日本は変な保護国
何か不満や不都合があれば、人のせい!社会のせい!誰かのせいでは、人間は、ただ生きているだけの様に思えます。全て自分の思う様になる世の中など存在しません。それを嫌なことと捉えるのか、当たり前だと受け入れ、少しでも希望を叶えられる様に努力するのかは大きな違いです。今現在の社会は、規範の範囲が曖昧になり、個人の自由との境界線が見え難くなっています。時代の流れとは故、どうしてこの様なことになってしまったのか?本当に残念です。何十年位前でしょうか?今は巨匠と言われているある有名なタレントが、大きな不祥事を起こして謹慎した後に、復帰記者会見を行いました。その時に私は、何と言って釈明や謝罪するのかと注意深くテレビを観ていました。記者の「事件に対して今、どう思っていますか?」との問い掛けに「私の中では、もう終わったことだと思っています。」と聞き、落胆した記憶があります。またこんな切り返しで世間は納得出来てしまうのか?とても不思議な感覚に包まれました。「私の中で」と言う言葉が何度も何度も頭に巡りました?私の解釈が偏向しているのかも知れませんが「私の中で~」の真意は、他人がどう思おうと私は関係ない!とか、オレが終わりだと言っているのだから、それで何か文句があるのか?と言う全く身勝手と申しましょうか?自分が最も大切で人様や世間様には無関心であるとの考えを自ら宣言している様に私は聞こえたのです*人の振り見て我が振り直せ!と言いますが、今私は絶対遣いたくないと気を付けている言葉があります。 「私の中で」「とりあえず」「私的には」「よくなくなくなあ~い」笑 世間とは不思議なものです。針の先程の事に対しては大騒ぎをするのに、テレビなどに出演している影響力のある方の事件に対しては寛容な部分もありますよね?逆にその事件を売り物にして人気が出たりもするのですから・・・
真の喜び
スポーツの楽しみ方は様々な筈ですが、今の日本はどちらかと言えば勝つ事、お金だけに囚われています。スポーツとは一体何でしょう?何の為にスポーツをするのでしょう?今一度、自分自身と向き合い深く考えて見たいと思います。スポーツをすると、気持ち良いから!あの達成感が堪らない!意思疎通が出来た時の喜び、爽快感などなど沢山あります。プレーヤーから立場を変え、観る側から考えますと、お金を沢山貰うスーパープレーヤーが好きな人がいたり、私の様に地味だが見えない貢献をするシブイ選手が好きな者もいます。また、恵まれた環境で育ったイケメンでスマートな選手がお気に入りな方、対照的に貧乏のどん底から這い上がって来た泥臭い選手が好きな私!どんな選手を好きになり、どんなチームを応援するのかは個人の自由な価値判断に基づきます。スポーツには必ず勝ち負けがあります。しかし、スポーツをする価値や意味は、そんな表面的な価値判断では推し量れないモノだと思います。保護者様や監督コーチが深い目を持ち得なければ、子供達もきっとそうなってしまうのでしょう?その戦いの中で、勝ち以外の様々なことを感じ取り、自分に反映させていけるのかは本当に貴重で大切です。ある本の中で、こんな件がありましたのでご紹介致します。スポーツは表面的に勝敗を競う行為ではあるけれど、そこから学び、自分の成長の糧と出来るのは、人間のみに許された崇高な行為の一つである。私達はその事に気付かせてやる使命があるのではないでしょうか。スポーツから学んだもの、感じたものを自分の血肉にする能力を持っているのは、私達人間だけであることを忘れてはいけません・・・
野生動物の方々に失礼をお詫び致します。貴方達の方が崇高なモノは人間よりも沢山持ち合わせています事は重々承知しております。崇高なモノが少ない人間を諌める言葉であるとどうかご理解下さい。
「勝ち負けを超えた喜び」こそ、私が想う真の喜びです*
生と死
生きることと死ぬことは、別々に考えてしまいがちですが・・・この話題は止めておきます。驕りがでそうですので*
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